刃を収めるとき
「何か見つけたのか」
ダレンの声には、いつものような挑むような響きはなかった。ただ、素直な問いだけがあった。
「うん。三十年くらい前にも、同じことがあったみたい。灯火祭の日に周期が乱れて、獣の数が跳ね上がった――そう書いてある記録が、一つだけ」
僕は、抱えていた記録帳を軽く持ち上げて見せた。
「三十年前も、か」
ダレンは、片方の腕を布で吊ったまま記録帳の表紙を見つめた。
「それがどういう意味か、まだ分からないんだけど」
「分からなくても、放っておけない話だな」
ダレンは、そう言って詰所の壁にもたれかかった。腕の痛みのせいか、少し顔をしかめている。
「お前、休んだ方がいいんじゃないか」
「これくらい平気だ。それより――お前、行くところがあるんだろ。名主の集まりに呼ばれてるって、親父が言ってた」
その言葉に、僕は思わず記録帳を握り直した。
「僕が? 何のために」
「知らん。だが、多分、良い話じゃないと思う」
ダレンの表情には、珍しく、はっきりとした心配の色があった。
集会所には、村の名主や年配の自衛団員たちが、既に集まっていた。板張りの床に、灰色の光が差し込んでいる。フェインが、上座に近い位置で静かに座っていた。
「呼んでもらって、ありがとうございます」
僕がそう言うと、フェインが小さく頷いた。名主の一人――ダレンの父――が、少し身を乗り出した。
「今日は、感謝を伝えるための場ではない。むしろ、少し厳しい話をさせてもらう」
「はい」
「お前の読みが、村を助けたことは皆分かっている。だが――このまま、子供の"読み"を公に信じ続けていいものかどうか、迷う声がある」
年配の自衛団員の一人が、そこに付け加えた。
「疑うことが、当たり前になっては困る。今回は結果が良かった、それだけの話だ。だが、次はどうなるか分からん。子供の思いつきに、村の判断を委ねる前例を作るのは危険だ」
その言葉に、僕は何も言えなかった。反論できるだけの根拠は、まだ手の中にない。ただ、記録帳を抱える手が、じわりと汗ばんでいくのを感じた。
「疑うことは不敬だ。今回だけの例外として片付けるべきだ、と俺は思う」
別の一人が、そう続けた。誰の声にも、悪意はなかった。ただ、これまでの村の在り方を守ろうとする、静かな圧だけがあった。
集会所の扉が、そこで小さく音を立てて開いた。
「――話は、聞かせてもらった」
ダレンだった。片方の腕を布で吊ったまま、肩で息をしている。走ってきたのだろう。
「ダレン、お前、まだ動くなと言われたはずだが」
名主が、驚いた顔で息子を見た。ダレンは、それには答えず部屋の中央まで進んだ。
「今回だけの例外なんて、俺は思ってない」
「ダレン……」
「北の外れで、あいつが伏せろって言った瞬間、俺は理由も分からずに動いた。それを、ただの運だと言うなら俺の腕の傷は何だったんだ」
ダレンの声は、いつもの高圧的な響きではなく、低く確かな重さを持っていた。
「疑うことが不敬だっていうなら、俺はもうそんな不敬をずっと信じることにする」
集会所に、しばらく沈黙が落ちた。名主が、ゆっくりと息を吐く。
「……お前がそこまで言うとは、思わなかったな」
「俺も、思わなかった」
ダレンは、そう言ってこちらに視線を向けた。
「ノア。お前の"疑う"力を、俺は認める。今さらだが、な」
その言葉が耳に届いた瞬間、僕の中でこれまで積み重なっていた何かが、静かに崩れていくような感覚があった。胸の奥の棘が、痛みではなく、初めて温かさに近い感触で疼いた。
フェインが、その様子を見て、小さく息をついた。
「……今回は、確かに結果が出ている」
名主が、そこで身を乗り出した。
「フェイン様。俺からも一つ言わせてもらいたい」
「……言ってみろ」
「塩の配給、鐘楼の刻み、獣の避ける区画、隊商の日取り――俺は、これまでも何度もこの子の言葉に助けられてきた。それが、今度は氾濫そのものまでだ。これだけ重なれば、もう"たまたま"では片付けられん」
名主は、そこで一度言葉を切り、記録帳を抱えたままの僕に視線を向けた。
「今後、獣の周期や村の異変に関する報告は、隊長を通じて詰所の正式な記録として扱う。ノア、お前が気づいたことは、これからも聞かせてもらいたい」
フェインが、しばらく名主の顔を見つめてから、小さく頷いた。
「……それで構わない。詰所を通した報告なら、村としても正式に受け取れる」
集会所に、小さなざわめきが広がった。年配の自衛団員が、それでも納得しきれない顔で口を開いた。
「それでも、疑うことが当たり前になるのは、俺は好かん」
「それはお前の勝手だ。だが、もう決まったことだ」
名主は、そう言って短く息を吐いた。誰も完全に納得したわけではないだろう。それでも、この場の空気が、もう後戻りしないことだけは確かだった。
集会所を出ると、外の光が、さっきよりも眩しく感じられた。
「大丈夫か」
ダレンが、腕を押さえながら聞いてくる。
「うん。ありがとう、来てくれて」
「礼はいい。ただ――」
ダレンは、少し言葉を選ぶように口を閉じた。
「俺は、ずっとお前を越えなきゃいけない相手だと思ってた。名主の息子として、誰よりも先にスキルを得て誰よりも上に立つべきだって。だが、昨夜のあれで分かった。お前が見てるものは、俺の"力"とは全然違う場所にある」
「違う場所?」
「俺は、目に見える力しか信じてなかった。お前は、目に見えないものを、ずっと見ようとしてた。どっちが強いとか、そういう話じゃないんだろうな」
ダレンは、そう言って片方の口の端を上げた。以前の、挑むような笑みではない。もっと静かで、確かな笑みだった。
「これからは、お前の話を、ちゃんと聞く。ライバルじゃなくて、味方として」
その言葉に、僕は思わず目の奥が熱くなるのを感じた。長い間、対立していた相手が、こうして隣に立ってくれる――それがどれほど心強いことか、今、初めて実感していた。
「うん。これからも、頼りにさせてもらう」
僕たちは、しばらく黙って広場の方へ並んで歩いた。修繕の音が、まだあちこちから響いている。
「そういえば」
ダレンが、ふと口を開いた。
「来月、トビンたちの目覚めの儀があるな」
その名前に、僕は少しだけ足を止めた。
「トビン……そうだ、僕と同期だったよね」
「ああ。あいつ、大人しくて、あんまり目立たないやつだが」
ダレンは、それ以上は特に何も言わず、ただそう呟いただけだった。だが、その言葉が、なぜか胸の奥に小さく引っかかった。何の根拠もない、ただの予感めいた感覚だった。
灯り台の残り火が、まだ細く煙を上げている。修繕を終えた見張り小屋の屋根の上で、鳥が一声鳴いて飛び立っていった。
昨夜の氾濫が僕たちに残したものは、被害の記録だけではなかった。ダレンとの関係が変わり、古い記録の中に新しい疑問が生まれ、そして――まだ何も起きていないはずの、来月の儀式への小さな予感。
その予感が、何を意味するのか。僕はまだ、知らなかった。
ダレンとの関係が、少し落ち着いた回でした。感想やコメントで教えてもらえると嬉しいです。




