拍手の隙間
昼が近づく頃には、村のあちこちで、槌を打つ音と瓦礫を運ぶ足音が響いていた。
見張り小屋の壊れた壁に板が当てられ、灯り台の焦げた柱には新しい支えが組まれていく。子供たちまで総出で、崩れた垂れ幕や割れた灯籠の欠片を拾い集めていた。昨夜の恐怖の跡を、少しずつ消していくような作業だった。
僕は、詰所から借りた木槌を手に、見張り小屋の板張りを手伝っていた。手を動かしていると、少しだけ頭が現実に戻ってくる気がした。
「ノア、こっち持って!」
カイルが板の端を抱えたまま呼ぶ。灯籠を守り抜いた昨夜の落ち着きは、朝の光の中ではもういつもの元気さに戻っていた。
「うん、今行く」
板を打ち終えると、広場の方から村長フェインの声が響いてきた。
「皆、少し手を止めて、こちらへ」
作業していた人々が、ぽつぽつと広場に集まってくる。フェインは、灯り台の焼け残った柱に手を添えたまま、村中を見渡した。
「昨夜は、これまでで最大の氾濫だったと聞いている。それでも、命を落とした者は一人もいない。これは、皆の踏ん張りのおかげだ」
拍手が起こる。フェインは、それを片手で制すると続けた。
「特に――今回、方角と規模を早くに読み、被害を最小限に抑える助けになったのは、ノアの記録だったと聞いている」
その言葉に、僕の名前が広場に響いた瞬間、拍手の音が一段と大きくなった。だが、僕の耳には、その拍手の中にほんのわずかな隙間があるのが分かった。
拍手をしながらも、目を合わせようとしない人が、何人かいる。
「……あの子供が、そこまで正確に読めるものかね」
近くに立っていた年配の女が、隣の男に小さく囁いていた。
「さあな。ただの運が、これだけ続くとも思えん」
囁きは、悪意というよりは戸惑いの色が濃かった。それでも、その言葉の下には、確かに何かを警戒するような響きがあった。
僕は、その視線を正面から受け止めることができなかった。称えられているはずなのに、胸の奥では、小さな棘が引っかかるような感覚があった。褒められる言葉と警戒する目――同じ人の中に両方が同時にあるのが、居心地悪かった。
以前、井戸端で世話になった近所の女が、今日は目が合うと、すぐに顔を伏せて別の作業に戻っていった。悪気があるようには見えなかった。ただ、これまでのように、気軽に声をかけてくることもなくなっていた。その小さな変化だけで、自分の立ち位置がまた少しずれたのだと分かった。
「気にすることないよ」
隣に立っていたリゼが、僕の袖を軽く引いた。
「みんな驚いてるだけ。悪く言おうとしてるわけじゃないと思う」
「うん……そうだといいけど」
僕は、そう答えながらも、囁きの主だった女が、こちらを一瞬だけ見てすぐに目をそらしたのを見ていた。
助けられて、感謝される。それなのに、これまでよりも少し遠くに置かれたような気がする。称賛と警戒が、同じ拍手の中に混ざり合っている――その感覚を、僕はどう扱えばいいのか、まだ分からなかった。
フェインの話が終わり、人々がそれぞれの作業に戻っていく。僕は、その流れから少し離れて詰所の方へ足を向けた。
詰所の中では、隊長が、破れた地図の隅を糊で留めていた。壁の棚には、古い出動記録の束が積まれている。
「隊長。少し聞いてもいいですか」
「ノアか。何だ」
「昨夜のことです。流れ者が一人もいなかった夜に、これまでで一番大きな氾濫が起きた――ダレンが言っていたこと、僕もずっと引っかかってて」
隊長は、糊の筆を止めて僕の方を見た。
「お前も、同じことを考えていたか」
「はい。それで――もし、同じようなことが昔にもあったんじゃないかと思って」
隊長は、しばらく黙っていたが、やがて棚の古い記録帳を一冊、取り出した。
「探すだけなら、構わん。ただ、期待するほどのものは出てこないかもしれんぞ」
僕は、埃をかぶった記録帳を灯りの下で開いた。年ごとに綴られた出動の記録が、細かい文字で並んでいる。祭りの日付、周期の乱れ、被害の規模――それらを一枚一枚、目で追っていく。
三十年近く遡ったところで、僕の手が止まった。
「隊長、これ……」
一行だけ、他の記録とは違う書き方の欄があった。
『灯火祭当日、獣の出現、例年比で著しく多数。周期の乱れの原因不明。以後、経過観察』
日付の欄には、当時の担当者の名前らしき短い署名と、「処理済み」という短い注記だけが残っていた。それ以上の記述は、どこにもない。
「これ、昨夜と同じです。灯火祭の日に周期が乱れて、数が増えてる」
隊長は、僕の指す欄をじっと見つめた。
「……本当か」
「この年も、灯火祭だったんですか」
胸の奥に、小さな棘が引っかかるような感覚が、また戻ってきた。今度は、称賛や警戒への戸惑いとは違う、もっと冷たい種類の疼きだった。
もし、これが初めてではないのなら――氾濫の規模が跳ね上がるのは、単なる偶然の重なりではなく、何か決まったきっかけがあるということになる。
「三十年前にも、同じことがあった。それが『処理済み』の一言で片付けられて、以後、誰も気にしていなかった――そういうことですか」
隊長は、記録帳を見つめながら、しばらく答えなかった。壁の地図に張られた古い印を、目で辿るように見つめている。
「当時のことは、俺も詳しくは知らん。だが、こうして残っている以上、無視できる話ではないな」
「隊長、これ……」
僕は、もう一度その一行に目を落とした。書き手の名前は、かすれてほとんど読み取れない。ただ、「処理済み」という言葉の硬さだけが、やけに引っかかった。
『処理済み』――誰が、何を、どう処理したというのだろう。
答えの出ない問いを抱えたまま、僕は記録帳をそっと閉じた。窓の外では、まだ村の再建の音が続いている。称賛と警戒の入り混じった拍手の隙間から、僕はまた、新しい違和感の欠片を拾ってしまったようだった。
「隊長、この記録帳、もう少し借りていってもいいですか」
「持っていけ。俺よりも、お前の方が、その先を見つけられそうだ」
そう言った隊長の声には、これまでのどの言葉よりも確かな信頼の色があった。
外に出ると、詰所の壁の陰から、ダレンが片方の腕を布で吊ったまま、こちらをじっと見ていた。
「何か見つけたのか」
その問いに、僕はすぐには答えられなかった。ただ、記録帳を抱える手に、思わず力がこもった。
隊長の信頼の言葉、今回のポイントです。読んでいただきありがとうございます。




