誰も来ない夜に、なぜ最大の氾濫なのか
東の空が、ようやくはっきりと白み始めた頃、村中の唸り声は完全に消えていた。
詰所の前には、疲れ切った男たちが槍を杖のように支えにしながら座り込んでいる。誰の顔にも、安堵と、まだ抜けきらない緊張が同時に浮かんでいた。灯り台の炎だけが、朝の光に溶けるように少しずつその輝きを失っていく。
「被害の確認はまとまったか」
隊長の問いに、伝令の一人が記録帳を手に頷いた。
「見張り小屋の損壊は数箇所。負傷者は十数名――ですが、命に関わる者は出ていません。増援の迂回と、東の避難がうまくいったおかげです」
「北の外れは、どうだった」
隊長が、そう問いを継いだ。伝令は、記録帳の別のページをめくった。
「あそこは、他のどの方角よりも荒れてました。爪痕と踏み跡が、地面のあちこちに集中して残ってて……正面の音の区画とは、比べものにならないくらいです」
隊長が、短く息を吐いた。
「本当に、あそこに溜め込んでいたみたいだな」
「想定していた規模から見れば、驚くほど少ない」
隊長は、そう言いながら僕の方に視線を向けた。何も言葉にはしなかったが、その目の中に、これまでとは違う色があるのが分かった。
僕は、詰所の壁にもたれるように座り込み、記録帳を膝の上で開いていた。まだ、頭のどこかがずっと張り詰めたままの感覚がある。
「ノア!」
その声に顔を上げると、リゼが広場の方から駆けてくるのが見えた。灯籠の残り火で汚れた顔のまま、こちらに手を振っている。
「良かった、無事だったんだね」
「うん。リゼも大丈夫だった?」
「うん。カイルが、子供たちを連れてきた場所で、ずっと灯りの番をしてた。……ノアが、あそこで教えてくれたんだって、後で聞いたよ」
リゼは、そう言って少しだけ声を落とした。
「怖かった。でも、灯りだけは絶対に消さなかった」
「あの、灯籠を持ってた小さい子――大丈夫だった?」
「うん。今はもう、母親の隣でぐっすり眠ってる」
僕は、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。名前も知らないままだったその子の無事を、今初めて確かめられた気がした。
リゼの手には、まだ小さな灯籠が握られていた。夜通し守り抜いた、その明かりの重さを僕は初めて感じ取った気がした。
その言葉に、僕は昨夜のセルマの声を思い出した。灯りを絶やすな――あの言葉が、単なる言い伝えではなく実際にこの夜を生き延びるための確かな一本の糸だったのだと、今改めて感じた。
広場の方から、村長フェインの声が響いてきた。
「皆、よく持ちこたえてくれた。今夜のことは、追って詳しく調べる。だが今は、まず休んでくれ」
いつもの落ち着きが、少しずつ戻ってきているようだった。それでも、その声の奥にまだ拭いきれない張り詰めた響きが残っているのを僕は聞き取っていた。広場を見渡すと、灯籠を手に立ち尽くす人、崩れ落ちるように座り込む人――昨夜までの祭りの喧騒とは、まるで違う光景が広がっていた。
セルマの姿を、詰所の近くで見つけた。近所の女たちと一緒に、まだ灯り台の火を確かめて回っている。僕に気づくと、駆け寄ってきて、両手で僕の肩をつかんだ。
「無事だったのね……よかった、本当に」
「うん。心配かけて、ごめん」
「謝ることじゃないよ。あんたが、皆を助けたって聞いた」
セルマは、そう言いながら僕の顔をじっと見つめた。いつもの「疑うな」の硬さとは違う、複雑な色がその目に浮かんでいた。安堵と、それだけでは言い表せない何かが、その表情の奥で入り混じっているように見えた。
「今年は、いつもより念入りに気をつけてほしいって言ったこと覚えてる?」
「うん。理由は分からないって、言ってたよね」
「……本当に分からないんだよ。ただ、何かが近づいてる気がして、それだけだったんだ」
セルマの目が、一瞬だけ北の外れの方角を見た気がした。何かを確かめるような、それでいてすぐに逸らされる視線だった。
セルマは、それ以上は語らず、また灯り台の方へ戻っていった。その背中を見送りながら、僕はまだ胸の奥に小さく残る違和感をもう一度確かめ直した。
広場の隅で、カイルが寝入った子供たちの傍にしゃがみ込んでいるのが見えた。灯籠を抱えたまま、こちらに小さく手を上げる。その顔には、いつもの無邪気さの中に、初めて見る種類の落ち着きが混じっていた。
ダレンが、腕に布を巻いたまま、詰所の壁に貼られた記録を見つめていた。
「隊長、今回の出現数を記録し直した方がいいんじゃないか」
「なぜだ」
「三日周期が崩れただけじゃなく、規模そのものが、これまでのどの記録より多い。それも――」
ダレンは、そこで言葉を止め、僕の方を見た。灯りに照らされたその顔には、疲労とは違う、何かを確かめるような硬さがあった。
「今夜、村に来た流れ者は、一人もいなかったよな」
「北の外れは、これまで一番安全だったはずの場所だ。獣が避けてて、流れ者が来る時期でも荒れなかった。それなのに、今夜は誰よりも先にそこへ溜め込んでた」
その言葉に、僕の頭の中でこれまでの断片が急に一本の線でつながった。
流れ者が来ている時期だけ、獣の周期が崩れる――これまでずっと、そう考えてきた。だが今夜は、誰も外から来ていない。それなのに、これまでの記録のどれよりも規模の大きな氾濫が起きている。
外から誰かが来ると崩れるのではなく、誰も来ていない夜にこそ、最大の氾濫が起きた。
これは逆だ。
胸の奥で、棘が静かに、だがこれまでとは違う重さで疼いた。まるで、これまで積み上げてきた前提そのものを、根っこから覆されたような重さだった。
「……これは、偶然なんだろうか」
僕は、思わず声に出した。
「今日という日を、まるで選んで待っていたみたいに」
隊長も、ダレンも、その言葉にすぐには答えなかった。答えを持っていないのではなく、答えたくないのだと、僕はその沈黙の質から感じ取った。
詰所の入り口から見える柵の方角に、僕はふと視線を向けた。夜通しの騒ぎの中でも、そこにはずっと動かない人影があった。調律士オーレンが、朝の光の中でも変わらず同じ場所に立ち、柵の向こうをじっと見つめ続けている。
その姿を見つめながら、僕の中の違和感は、これまでのどの謎よりも深く静かに根を張っていくのを感じた。
氾濫は収まっても、不自然さは消えません。気になる方は、ブックマークで追いかけてもらえると助かります。




