ダレンを救ったのは、足音のわずかな乱れ
黒い影が跳んだ瞬間、時間の流れが、やけに遅く感じられた。
「ダレン、伏せて!」
僕の声より先に、ダレンの体が反応していた。とっさに身を沈め、槍を横に構え直す。だが、跳んできた獣の勢いは、想像以上だった。ダレンの槍は、その巨体をわずかに逸らしただけで、そのまま地面に転がされる。
「ダレン様!」
近くの隊員が駆け寄ろうとするが、獣は身を翻し、二撃目のために構え直していた。低い体勢のまま、四肢に力を溜めるように、じりじりと詰め寄ってくる。
胸の奥の棘が、これまでのどの瞬間よりも強く疼いた。片目が細くなる。だが今、僕の中で開けているのは、その疼きだけではなかった。先ほど北の外れで初めて感じた、耳の奥の膜が剥がれるような感覚が、まだそのまま残っている。
耳の奥で分かれて聞こえていた二つの音――正面の反射音と、この一頭が立てる本物の足音。その本物の足音の中に、わずかな乱れがあることに、僕は気づいた。獣が地面を蹴るたび、右の前足だけが、他よりわずかに遅れて着地している。
(右の前足――そこだけ、力の入り方が違う)
これも、"看破"だ。弱さの在り処そのものを見抜く力――咄嗟に、そう思った。
「右前足だ! そこを狙って!」
僕の声に、隊員の一人が槍の向きを変えた。獣が三度目の跳躍に構えた瞬間、その右前足めがけて槍が突き出される。狙いに、狂いはなかった。
低い咆哮が上がった。獣の体勢が、大きく崩れる。
「今だ、ダレン様、離れて!」
隊員の声に、ダレンは地面を這うように後退した。崩れた獣に、他の隊員たちが一気に槍を向ける。数度の攻撃の後、獣は大きく体を震わせ、そのまま動きを止めた。
その巨体が地に沈むのを見て、初めて、僕は自分の膝が笑っていることに気づいた。
「……終わったのか」
誰かが、そう呟いた。
正面の音の反射する区画からは、まだ低い唸り声が響いていたが、それはもう以前ほどの近さではなかった。まるで、本命の一頭を失ったことで、囮の音だけが空しく響き続けているかのようだった。増援の男たちも、その事実に気づいたのか、正面への警戒を保ちながらも体からわずかに力が抜けていくのが分かった。
僕は、震える足でダレンの元へ駆け寄った。
「大丈夫? どこか、やられてない?」
「……かすっただけだ。大したことはない」
ダレンは、そう言いながら立ち上がろうとして、わずかに顔をしかめた。腕の一部が、獣の爪でわずかに裂けている。それでも、命に別状はなさそうだった。
僕は、その腕に巻くための布を隊員の一人から受け取った。傷口を見た瞬間、あの黒い影が跳んだ一瞬の記憶が、まだ胸の中で生々しく残っているのを感じた。もう少し遅れていたら――そう思うだけで、手が震えた。
「なんで右前足だって分かったんだ」
「足音が、わずかに違ってた。他の隊員には聞こえないくらい小さな違いだったけど」
「そんな違い、俺には一生分からんな」
ダレンは、しばらく僕の顔を見つめていた。それから、小さく息を吐いた。
「……お前、ますます変わってきてるな」
「変わってる、で済ませていいのかな。これ」
「済ませるしかないだろ。今は、命が助かったことの方が大事だ」
その言葉に、僕は少しだけ肩の力が抜けた気がした。全身が、ようやく今夜初めて震えを許したような感覚だった。
耳の奥に残るあの感覚を、僕は静かに確かめていた。見るだけだった力が、今は聞くことにも届いている。ほんの数日前、祝詞の語順から意味の一致を見抜いたときに感じた、あの狙って突き立てる感覚と、今夜音の乱れから弱さの在り処を見抜いた感覚は確かに同じ根から伸びていた。段々と、自分の"見抜く"範囲が広がっている――そのことに、少しの怖さとそれ以上の高ぶりを覚えていた。
隊長が、僕たちの元に駆けてきた。その顔には、疲れの中に、確かな安堵の色が浮かんでいた。
「本命は、これで倒せた。囮の方は、音だけで実体が薄い。このまま引いていくはずだ」
「油断は、まだ早いですよね」
「その通りだ。だが、今夜最大の危機は越えたと思う」
その言葉に、周りの隊員たちからも小さくどよめきに似た息が漏れた。ようやく、この長い夜に一つの区切りがついたのだと、僕自身も、ここで初めて実感できた気がした。
僕は、記録帳をもう一度確かめた。北、西、南、東――四方向すべてが、これで一度は動いたことになる。帯の刻みの比率通りなら、次の大きな波が来るまでには、まだ時間がある。
「隊長に、報告に戻ります」
「俺も行く」
ダレンが、腕を押さえながらそう言った。
「無理しないで」
「無理も何も、お前一人で歩かせる方が俺は落ち着かない」
その言い方には、以前のような突っかかる響きはなく、ただ純粋な気遣いだけが残っていた。
僕たちは、並んで詰所への道を戻った。歩きながら、ダレンが、ふと口を開いた。
「さっき、伏せろって声が聞こえた瞬間、なんでか妙に信じられたんだ。理由も分からずに、体が先に動いた」
「僕も、なんでかは分からない。ただ、あの音の違いに気づいた瞬間、動かなきゃって思っただけで」
「それでいい。理由なんて、後からついてくる」
「今夜だけで、随分と積んだよな」
僕は、思わずそう漏らした。方角を読んで、増援の進路を変えさせて、カイルたちを逃がして、囮の正体まで見抜いて――そのどれか一つだけでも、さっきまでの詰所なら鼻で笑われて終わっていたかもしれない出来事だった。
「積んだんじゃない。全部、当たったんだ。それだけの話だろ」
ダレンは、そう言って少しだけ口の端を上げた。以前のような、挑むような笑みではなかった。もっと静かで、素直な色をした笑みだった。
詰所が見えてくる頃、東の空が、わずかに白みかけているのが分かった。四方から重なっていた唸り声は、今はもう遠くにわずかに残るだけになっていた。灯り台の火だけが、まだ夜明けを認めないように、ゆっくりと燃え続けている。
「戻ってこいよ、必ず」――あの言葉を、僕は今、確かに果たせたのだと思った。それでも、まだこの夜が本当に終わったとは言い切れない、そんな気配が胸の奥に小さく残っていた。四方向すべてが動いた今、残るのは、この夜がなぜここまでの規模になったのかという問いだけだった。
危機は越えましたが、まだ夜は明けきっていません。




