囮の唸り声
東の唸り声は、僕が示した方向の反対から迫っていたにもかかわらず、結局、獣の姿が現れることはなかった。
自衛団の男が、しばらく槍を構えたまま闇を睨んでいたが、やがて唸り声はゆっくりと遠ざかっていった。緊張が抜けきらないまま、辺りには重い静寂だけが残った。
「……逸れたか」
「分かりません。でも、カイルたちは間に合いました」
僕は、そう答えながら詰所へ戻る道を急いだ。カイルの手を離れた子供たちが、無事に灯りの下へ辿り着いたのを目の端で確かめてある。灯籠の並ぶ広場の隅に、リゼの後ろ姿も見えた気がした。今は、それを確かめに行く時間さえ惜しかった。
詰所に戻ると、隊長が地図の前で険しい顔をしていた。伝令や見張りたちが、次々と出入りし、報告の声が絶えず飛び交っている。
「北の増援、迂回のおかげで、正面からの奇襲は避けられた。だが……」
「だが?」
「向こうでの被害が、思ったより大きい。予測していた規模より明らかに多い数が、あの一角に集まってる」
僕は、記録帳に目を落とした。北、西、南、東――間隔の比率は、確かに帯の刻みと重なっていた。それなのに、規模の予測だけが、はっきりと外れている。
胸の奥で、棘が疼いた。だがそれは、いつもの「気づき」の疼きとは少し違う質のものだった。この読みが正しかったこと自体を、喜べる余裕がなかった。
(数が合わない……もし、僕が読んでいたのが、"見えている分だけ"だったとしたら)
「隊長。東で聞こえた唸り声、あれは本当に僕たちの方に来ようとしてたんでしょうか」
「どういう意味だ」
「あの声、思ったよりずっと大きく響いていた気がします。でも、実際に近づいてきた気配は、途中で薄くなった。まるで――音だけが大きく響くように、何かに反射していたみたいに」
隊長は、しばらく黙っていた。それから、地図の一点――境の柵の古い区画を指でなぞった。
「隊長、さっき詰所で地図を広げたとき、誰かが言ってましたよね。あそこは、昔から音がおかしく響くとかいう」
「……年配の連中が、そんなことを言っていたな。それが、今どう関係する」
「そこを使って、音だけで僕たちの目を東に引きつけて――本当の数は、別の場所に集まってるとしたら」
隊長は、地図に広げたままの記録帳をもう一度手に取った。
「筋は通る。だが、そんな仕組みが、ただの自然のいたずらで生まれるものか」
「分かりません。でも、今はそれを確かめるより動く方が先だと思います」
(もし本当に、誰かがこの村の獣を操っているとしたら――でも、それはまだ、あくまで僕の読みに過ぎない)
年配の自衛団員も、いつの間にか地図を覗き込んでいた。その顔には、まだ疑いの色が残っていたが、それでも口を挟もうとはしなかった。
「北か」
僕たちは、同時に地図の北の一角を見た。増援が迂回した先、まさにダレンたちが再集結しているはずの場所だった。
「僕が行きます」
「さっきも言ったが、お前が行って――」
「今度は、戦うためじゃありません。あそこで何が本当に起きてるのか、確かめるためです」
隊長は、僕の顔をじっと見つめた。それから、短く頷いた。
「一人では行かせん。お前の言う通りなら、これは伝令を出すだけじゃ足りない話だ」
本来なら、今夜のうちに柵の近くには行かせるな、と名指しで言われていたはずの僕を、隊長はもう止めなかった。誰も、そのことを口にしなかった。
隊長が、自ら槍を取り、自衛団の男二人を連れて詰所を出る支度を始めた。その速さに、僕は少しだけ驚いた。半信半疑だったはずのこの人が、もう迷わず動き出している。灯り台の炎の下で、その横顔にはこれまでの疑いよりも確かな警戒の色が濃く浮かんでいた。
僕たちは、灯りの届く道を抜け、北の外れへ向かった。走るうちに、風の匂いが変わっていくのが分かった。乾いた土と鉄が擦れるような、あの覚えのある匂いが次第に濃くなっていく。息が切れても、足を緩める気にはなれなかった。
北の外れに近づくと、そこには思っていたよりも静かな光景があった。増援の男たちが、迂回した位置で陣を組み、正面――音の反射する古い区画の方角に警戒を集めている。誰の顔にも、正面の唸り声に対する緊張だけが張り付いていて、背後を気にする様子は見えなかった。
その視線の先には、確かに複数の唸り声が響いていた。だが、姿はまだ見えない。
近くにいた見張りの一人が、僕たちに気づいて駆け寄ってきた。
「隊長、まだ来ません。声だけが、ずっとこの調子で」
「音はしても、姿がないか」
隊長が、低く呟いた。その声には、これまでの半信半疑とは違う、何かを察したような重さがあった。
胸の奥の棘が、また疼いた。片目が、勝手に細くなる。だがその疼きの奥から、これまで感じたことのない何かが、じわりと広がっていくのを感じた。
耳の奥で、いくつもの音が層を分けて聞こえてくる。反射して大きく響く低い唸り声と、その下に隠れるようにもっと近くもっと静かに動く別の気配――これまで一つに聞こえていたはずの唸り声が、初めてはっきりと二つに分かれて聞こえた。まるで、耳の奥にもう一枚薄い膜が張られていたのが、今初めて剥がれたような感覚だった。
――見えるだけじゃなかった。祝詞の意味を見抜いたときと同じ、あの"看破"の感覚が、今度は音にまで届いている。
(違う……本命は、正面じゃない。もっと近くの、あの茂みの向こうだ)
「あそこです。正面の音は、音が響いてるだけで、本体は――」
僕は、そう言いながら視線を巡らせた。増援の陣とは反対側、風下の茂みの奥に、ダレンの姿を見つけた。他の隊員から少し離れた位置で、正面の唸り声に気を取られ、槍を構えている。祭りの夜が始まる前、僕に短く言葉をかけてから北へ向かった、あの背中だった。
その背後の茂みが、かすかに動いた。風向きが変わったわけでもないのに、その一角だけ、他の茂みとは違う重さで揺れていた。
「ダレン、後ろ!」
僕の声は、遠く風と唸り声にかき消されそうだった。もっと大きく、もっと早く。喉が張り裂けるくらいに、僕はもう一度声を張った。
ダレンが、はっとこちらを見た。だが、その一瞬の間に、茂みの奥から黒い影が、地面を蹴って跳び出してくるのが見えた。
本命はいつも別のところにあるものです。読んでいただきありがとうございます。




