詰所の号令
詰所の中は、怒鳴り声にも似た報告が、絶え間なく飛び交っていた。
「南、応答なし! 見張り台が二つ、同時に消えてます!」
「西の一団、まだ持ちこたえてるが長くは保たない! 増援を!」
地図を囲む男たちの声が、次々と重なり合う。灯り台の炎が、その熱気に押されるように、いつもより忙しく揺れていた。壁に貼られた地図には、いくつもの印が、慌てた手つきで書き足されている。その印の数だけ、村のどこかで、今まさに誰かが槍を構えているのだと分かった。
入り口の脇には、応急の手当てを受けている男が一人、腕を押さえて座り込んでいた。誰も、その傷の深さを確かめる余裕さえないようだった。
僕は肩で息をしながら、その輪の中に飛び込んだ。
「隊長! 記録を持ってきました。獣の周期の――」
「ノアか」
隊長が、こちらを一瞥した。以前、僕をここから追い返そうとした男だ。だが今夜のその目には、余裕はどこにもなかった。
「後にしろ。今は、一分一秒が惜しい」
「だからこそです。あと数分で、次の方角が来ます」
僕はそう言い切って、懐から帯の欠片と、書き写した周期の記録を取り出した。手の中で、紙の端が小さく震えている。震えているのは、僕自身の手だった。
「三日間の周期は、これまで一度も崩れなかった。だから、今夜みたいに"逆に増えた"崩れ方にも、きっと形がある。ただの無秩序じゃないはずです」
「形、だと?」
年配の自衛団員の一人が、鼻を鳴らした。
「子供の思いつきに、村の命運を賭けろと言うのか」
「ノアの思いつきで、俺たちは何度も助かってきた」
そう答えたのは、地図の隅で立ったまま槍を握り直している、見覚えのある男だった。ダレンの父――名主の一人だ。祭りの装いのまま、ここに詰めていたらしい。
「息子から聞いている。塩の配給、鐘楼の刻み、獣の避ける区画のこと、それに……隊商の日取りの一件も。あれは、俺自身が頭を下げさせられた話だ。全部、後から確かめれば、あいつの言う通りだった」
隊長は、しばらく僕の顔と、手の中の記録を見比べていた。その沈黙が、やけに長く感じられた。もし今、突き返されたら――そう思うと、握った紙の端がまた小さく震えた。それでも、僕はここで引く気はなかった。
外から、また新しい足音が駆け込んできた。
「隊長! 北の一団、獣の群れに包囲されかけてます! ダレン様の隊も、その中に!」
僕の胸が、一瞬、大きく跳ねた。
(ダレン……)
「増援は、もう出してる。だが、正面から数を合わせに行くだけじゃ、間に合わない」
隊長は、そう言いながら、僕の方に視線を戻した。
「ノア。お前の"形"というのは、次にどこへ来るか、分かるということか」
「まだ確証はありません。でも――今までの周期のずれ方と、この帯に刻まれた線の間隔を比べれば、次の方角と、おおよその刻限が絞れる気がします」
「気がする、では、動かせない」
「なら、証明します。すぐに」
僕は詰所の壁に貼られた地図に、記録帳の紙を並べて置いた。灯りの下、線と数字が入り乱れて見える。頭の中で、ここ数日読み込んだ数字が勝手に並び直していく感覚があった。
北の出現から、西の出現までにかかった時間。西から南までにかかった時間。二つの間隔を書き並べてみると、その差は決して大きくなかった。むしろ、ある一定の比率を保って少しずつ短くなっているようにも見える。まるで、何かが加速しながら決まった順路をなぞっているかのようだった。
(もし本当に、これまで積み重ねてきた"埋め合わせ"の理屈が正しいなら――獣が絶対に避けていたはずの区画にも、意味があるはずだ。いつも空けられていた場所ほど、氾濫でこれまでの分を吐き出すように、真っ先に狙われる)
胸の奥で、棘がぴりっと疼いた。だが今は、それを見つめる余裕もなくただ手を動かし続けた。
年配の自衛団員が、僕の手元を覗き込んでまだ納得のいかない顔をしていた。
「そんな紙切れの数字で、何が分かるって言うんだ」
「今夜だけの話じゃありません。これまで積み重ねてきた三日周期の記録と、今夜の間隔を並べて比べてるんです」
「……本当に分かるのか」
「分かるかどうかは、これから確かめます」
「北、西、南――出現の順番と間隔を書き出してみます。少しだけ、時間をください」
「時間なら、あるだけ与えたいが実際にはそう長くない」
隊長は、そう言いながらも僕の作業を止めなかった。詰所の中の空気が、わずかに変わった気がした。誰も、僕を「子供」として追い出そうとはしなかった。
年配の自衛団員が、地図の別の一点――境の柵に近い古い区画を指でなぞりながら、誰にともなくぼやいた。
「そういえば、あそこは昔から音のおかしい場所だと言われてる。関係ないだろうが」
誰も、その言葉に取り立てて反応しなかった。僕も、そのときはただの雑談として聞き流していた。
その代わりに、外の喧騒が一段と大きくなっていく。獣の唸り声、駆け回る足音、そして遠くから、悲鳴とも怒声ともつかない声が風に混じって届いてくる。
「東は、まだ動いてないみたいですね」
僕は、地図の一点を指でなぞりながらつぶやいた。
「今のところは、な。ただ、それがいつまで続くかは分からん」
隊長が、低く答えた。その声の硬さに、僕はもう一度記録帳へ視線を落とした。
北、西、南――三方向。もし本当にこれが単なる無秩序ではなく、何らかの規則に基づいているのなら、残る東の方角にもいずれ何かが起きるはずだった。
そして、もし本当に「増えた」だけでなく「順番」まで決まっているのなら――今最も危険なのは、まだ動いていないその場所を誰も警戒していないことだった。
「隊長、東の見張りは、今何人います?」
「……少ない。他の三方に人を割いてるから、正直薄い」
その答えに、僕の中で、何かが一気に繋がった気がした。
「もし僕の読みが正しければ――東は、これから来ます。しかも、他のどこよりも、手薄なところを狙うように」
詰所の中に一瞬、静寂が落ちた。誰もが、僕の言葉の意味を飲み込もうとしているようだった。
名主の一人が、静かに口を開いた。
「隊長。今、他に確かな手立てがあるわけでもない。だったら、少なくとも東だけは備えておいた方がいいんじゃないか」
隊長はしばらく黙っていたが、やがて短く頷き、伝令の一人に東への人員追加を指示した。それでも、まだ半信半疑の色がその顔には残っていた。
その静寂を破るように、外からまた新しい足音が響いてきた。今度は、東の見張り小屋の方角から。
灯り台の炎が、風もないのに一段と大きく揺れた気がした。
「隊長! 東で、唸り声が……!」
僕は、思わず息を止めた。予感が、確信に変わろうとしている――そのことが、これから起こることの恐ろしさを一段と重く感じさせた。
今回はテンポ重視で進めました。




