数えた刻限
灯籠の準備がひと通り終わり、村人たちは束の間の休息に入っていた。僕はその隙をついて、もう一度詰所の壁に貼られた出動記録に目を通しに向かった。昼を過ぎても、詰所の前でオーレンが見せていたあの視線が、まだ頭の隅に引っかかっていた。
壁には、これまで書き記してきた獣の出動の記録が几帳面な文字でびっしりと並んでいた。三日間という周期は、確かにこれまで一度も崩れずに続いてきている。今回、灯火祭の夜に重なるのは、記録の限り初めてのことだった。
僕は記録の日付を指でなぞりながら、頭の中で数え直した。前回の周期の終わりから、今日までの日数――そこにも、狂いはないはずだった。だとすれば、崩れているのは重なり方そのものだけなのか。それとも、まだ僕が気づいていない何かが他にもあるのか。
今夜の見張りに入れないと言われたばかりの僕には、記録を確かめることくらいしか、今できることがなかった。それが余計に、この違和感を放っておけない気持ちに拍車をかけていた。
「まだ気にしてるのか」
声をかけてきたのは、ダレンだった。詰所の隅で、槍の手入れをしていたらしい。
「うん。今回みたいに、祭りの日と重なった記録が本当に一度もないのか、確かめたくて」
「一度もない。少なくとも、俺が知ってる限りは」
ダレンは、槍を布で拭う手を止め、僕の隣に立った。
「親父の話じゃ、今回の配置は、いつもの倍近い人数らしい。あの調律士様まで、朝から柵の方をうろついてるって話も聞いた」
「うろついてる? さっきは、ずっと同じ場所に立ってただけだったけど」
「そうか。まあ、俺が聞いた話じゃ、朝早くから何度も柵際を往復してたらしい。何を確かめてるのか、俺には分からんが」
僕は懐に入れていた帯の欠片を取り出し、日の光の下でもう一度見つめた。
「これ、見てくれる? この線、ただの模様じゃないと思うんだ」
ダレンは興味深そうに欠片を覗き込んだ。
「等間隔だな。刻んだような感じもする」
「うん。昨日から数えてるんだけど、線の数と獣の出る周期の日数が、なんだか近い気がして」
「三日、ってことか?」
「まだ確証はない。でも、こうして並べて見てると――何かを数えるための道具みたいに見えてくる」
指先が、じわりと汗ばんだ。
(もし、これが本当に何かを数えているとしたら……いつからいつまでを、数えてるんだろう)
僕は欠片の線を、もう一度端から数え直した。三本、また三本――同じ幅で刻まれた線の束が、いくつか繰り返されている。まるで、ひとまとまりの周期を何度も刻み続けてきたかのようだった。
ダレンは、しばらく黙って欠片を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「お前がそう言うなら、多分当たってるんだろうな。……前は、そんなふうに考える奴のことを、面倒だと思ってたんだが」
「今は?」
「今は、面倒でも、無視できないと思ってる」
その言葉には、以前のダレンにはなかった重みがあった。僕は素直にそれを受け取った。
一度、家に戻り水を飲みに立ち寄ったとき、セルマに獣の周期が祭りの夜と重なるという話をあらためて伝えてみた。
「その話、私も聞いたよ」
セルマは洗い物をする手を止め、少しの間黙り込んだ。
「今年は、いつもより村中が気を張ってる気がする。私も、うまく言葉にはできないけど……何か忘れちゃいけないことがある、そんな気がしてならないんだよ」
「忘れちゃいけないこと、って?」
「……分からない。ただの年寄りの勘さ」
セルマはそう言って、それ以上は語らなかった。いつもの「疑うな」とは違う、どこか怯えを含んだ言い方だった。僕はそれ以上は問わず、再び詰所へ戻った。
夕方近く、リゼが詰所の前まで様子を見に来た。
「まだここにいたんだ」
「うん。ちょっと気になることがあって」
「オーレンさんのこと?」
「知ってるんだ」
「うん、さっき、隣の集落へ向かう道の方まで歩いてるのを見た。あの人、いつもあんなふうに、あちこち動き回る人だった?」
「いや……初めて見た」
リゼは少し不安そうな顔をした。
「灯火祭って、ただの祝いの祭りだと思ってたのに。なんだか今年は違う気がする」
「僕も、そう思う」
リゼは少しの間、詰所の壁に貼られた地図を眺めていた。
「この地図、見ただけじゃ、わたしには何が変わったのか分からないな」
「見張りの数が増えてるのと、配置が去年より柵際に寄ってる。あと、境の外周を一周する見回りの回数も増やされてるみたいだ」
「そんなに細かいところまで、よく見てるね」
「気になると、つい」
リゼはそう言って、少し困ったように笑った。それから、ふと表情を曇らせた。
「もし、本当に何かが起きたら……ノアは、大丈夫?」
「分からない。でも、逃げるつもりはないよ」
その時、詰所の入り口に、見張りの一人が慌てた様子で駆け込んできた。
「隊長! 北の見張り小屋から、報告が――」
僕たちは思わず、その声の方を見た。
「柵際の草むらで、獣の足跡らしきものが見つかったそうです。まだこんな時間に見つかるのはおかしいと」
詰所の中の空気が、一気に張り詰めた。
「まだ日が落ちるまで時間があるだろう。三日間の周期は、いつも夜からのはずだ」
「はい。ですが、今回は……いつもより少し早いのではないか、という声が」
その言葉に、僕の胸の奥で、棘が、また鋭く疼いた。片目が、勝手に細くなる。
(早い……この重なりだけじゃなく、始まる時間まで、いつもとずれてる?)
ダレンの表情がみるみる硬くなっていくのが分かった。
「まさか……今日は、いつもの三日間の初日とも限らない、ってことか」
誰も、その問いには答えられなかった。詰所の中には、静かな緊張だけがゆっくりと満ちていった。
「とりあえず、日が落ちるまではいつも通り祭りを続ける。だが、見張りの数は予定よりさらに増やす。ノア、お前が持ってる記録も、後で写させてもらえるか」
「はい……もちろんです」
僕はそう答えながら、懐の帯の欠片をもう一度確かめるように握った。等間隔に並んだ線が、今はまるで刻限までの残りを示す目印のように見えてくる。この線が本当に何かの合図なら、今日という日はその合図が指す先に、ちょうど重なっているのかもしれない。
そんな考えを振り払うように、僕は詰所を出てまだ賑わいの残る広場の方へ足を向けた。日はまだ西の空に高く残っていた。だが、その光の暖かさが今日はどこか、いつもより頼りなく感じられた。
空気が変わる話でした。ここまで読んでいただきありがとうございます。




