灯火祭、始まりの朝
灯火祭の朝は、いつもより早く明るくなった気がした。
窓の外から、鳥の声に混じって誰かが灯り台を運ぶ音が響いてくる。僕は寝床から起き上がり、しばらくぼんやりと天井を見つめていた。
昨夜、ランプの下で眺めていた金属の帯の欠片は、まだ枕元に置いたままだった。表面の模様は、灯りが揺れるたびに違う角度で光を返していた気がする。今朝の光の下でも、確かめておきたかった。
僕は欠片を手のひらに乗せ、窓辺に近づけた。朝の白い光の中で見ると、昨夜よりも線がはっきりと見える。等間隔に並んだ細い溝――やはり、ただの傷や汚れではない。
見つめているうちに、手のひらがひんやりと汗ばんできた。
(これは……何かを数えるための線、なんだろうか。それとも――)
「ノア、朝ご飯できてるよ」
階下から、セルマの声がした。僕は欠片を布に包み、懐へしまい直してから、部屋を出た。
「おはよう」
「おはよう。今日は特別な日だからね、しっかり食べておくんだよ」
セルマはいつもより丁寧に朝食を並べていた。焼いたパンと、去年より少し豪華な干し肉のスープ。祭りの朝らしい献立だった。
「今日の夜、灯りを絶やさないようにしないと」
「うん、分かってる」
「本当に分かってるならいいけど……」
セルマはそう言いながら、僕の顔をじっと見た。いつもの「疑うな」の硬さとは少し違う響きがあった。
「今年は、いつもより念入りに気をつけてほしいんだよ。うちだけじゃなく――村中、そう思ってると思うから」
「なんで今年は特に?」
「……理由は、私にもはっきりとは分からない。ただ、そういう年もあるんだよ」
僕は、少し迷ってから聞いてみた。
「セルマ、昨日の夜、誰か来てた? 遅くまで、話し声が聞こえた気がして」
セルマの手が、一瞬止まった。
「……自衛団の人が、少し。お前が、隊商の日取りのことをあちこちで聞き回ってるらしいって、それを伝えに来たんだよ」
「それだけで、こんな時間に来るの?」
「今年は、それだけじゃ済まないんだよ」
セルマは布巾を固く握り直した。
「今年の見張りには、お前は近づけないでくれって、はっきり言われた。灯火祭の夜、境の柵の近くには、絶対に行かせるな、とね」
その言葉の重さに、僕は思わず手を止めた。見張りに入るつもりなど、元々なかった。だが、名前を挙げてまで名指しで外されたという事実は、ただの用心とは違う響きを持っていた。
「なんで僕だけ……」
「分からない。ただ、お前のことを、去年までとは違う目で見てる人がいるってことだけは、確かなんだよ」
セルマはそう言って、それ以上は語らず、鍋の火を確かめに戻っていった。僕はその後ろ姿を見ながら、自分の疑問が、今度は自分だけでなくセルマにまで届いてしまったのだと気づいた。胸の中が、静かに重くなっていく。
朝食を終え、外に出ると、広場はすでに人であふれていた。灯り台の位置を最終確認する男たち、灯籠を並べ直す女たち、走り回る子供たち――村中が今日という日のためにひとつになっているようだった。
「ノア! こっち、こっち」
リゼが、灯籠の並んだ一角から手を振っていた。
「最後の仕上げ、手伝ってくれる? この模様、色合いがまだ決まらなくて」
「うん、見せて」
僕はリゼの隣に座り、灯籠に描かれた模様を眺めた。渦を巻くような、灯りをかたどった単純な図案だった。
「今年の灯籠、去年よりずっと数が多い気がする」
「うん、村長さんが今年は特に力を入れるように言ったらしいよ」
「なんで今年は特に?」
「さあ……わたしも、詳しくは知らない。でも、なんだか大人たちの間でいつもと違う空気があるのは感じる」
リゼはそう言いながら、手元の筆を止めた。
「ノアも、感じてる?」
「うん。うまく言葉にはできないけど」
僕たちは、それ以上は言葉を重ねず、灯籠の仕上げに戻った。
しばらくすると、広場の隅から、年配の女たちの話し声が聞こえてきた。
「今年の飾り付け、去年の倍近くあるんじゃないかい」
「村長さんの指示だっていうけど、なんだか気合の入れ方がいつもと違う気がしてね」
「まあ、灯火祭は星への感謝の祭りだ。念入りにやって、悪いことはないだろうさ」
そんな会話が、笑い声混じりに交わされている。誰も、それ以上は深く踏み込まない。境ノ村では、いつものことだった。だが僕には、その笑い声の裏にうっすらとした落ち着かなさが混じっているように感じられた。
「ねえ、ノア」
リゼが灯籠を並べる手を止めて、僕の方を見た。
「もし今夜、何かあったとしても……ノアなら、きっと気づくよね」
「気づいて、どうにかできるかどうかは分からないけど」
「それでも、気づいてくれる人がいるだけで、なんだか心強い気がする」
リゼはそう言って、少し照れたように笑った。僕はその言葉を、心の中で何度か繰り返した。
昼近く、灯り台の配置を確認しに詰所の方へ向かうと、いつもより多くの自衛団の男たちが忙しく行き来していた。壁に貼られた地図には、村の外周をぐるりと囲むようにいくつもの見張り位置が書き込まれている。
「今年は、見張りの数、多いんだな」
近くにいたカイルが、灯籠用の竹を運ぶ手を止めて言った。
「自衛団に入ったら、俺もあそこに立つのかな。祭りの夜に見張りなんて、なんだかかっこいいよな」
「かっこいい、で済むかな」
ダレンが荷を担ぎながら、そう返した。以前のような冷たい口調ではなく、単なる指摘のような響きだった。
「うちの親父も、今朝から詰所に詰めてる。今年は、いつもより人を増やせって、村長から直接指示があったらしい」
「なんでそんなに増やすんだろう」
「知らん。ただ、獣の周期のことがあるからじゃないか。お前も、それは聞いてるだろ」
「うん。祭りの夜と重なるって話、村中に広まってるみたいだね」
「広まってる、というよりは……皆気づいてはいるが、あえて口にしないようにしてる、って感じだな」
ダレンはそう言って、少し声を落とした。
「俺も正直落ち着かない。だが、こういうときに騒いだところで、何も変わらんだろ」
僕は頷きながら、詰所の入り口の方に目をやった。そこに、見慣れない人影があった。
調律士オーレンが、詰所の前に立って境の柵の方角を、じっと見つめていたのだ。
背中を、うっすらとした鳥肌が這い上がった。
(オーレンさんが、祭りの警備に関わることなんて、今まで一度もなかったはずなのに)
いつもなら、目覚めの儀の面談以外では村の外れをうろつく姿を見ることはない人だった。今日は、まるでその場所を離れる気がないかのようにじっと柵の方角を見つめ続けている。
「あの人……いつも、あんな風に外を見てるものなのか?」
「いや」
ダレンが、少し眉をひそめて答えた。
「初めて見た。あの人、いつもは面談以外は、ほとんど詰所に近づかないんだが」
その答えに、僕の中の違和感はさらに輪郭を増していった。祭りの夜と、獣の周期が重なるという話。増やされた見張りの数。そして、いつもは姿を見せない調律士が、なぜか今柵の方をじっと見つめている。
一つ一つは、説明のつく話なのかもしれない。だが、それらが今日という同じ一日の中に重なっていることが、どうしてもただの偶然だとは思えなかった。
昼下がりの光の中で、オーレンの視線だけがいつまでも柵の方角に向けられていた。
今回は少し短めでした。




