名を刻む
隊列が村に着いて二日目の夜、僕は思い切って頭領の男に声をかけてみることにした。
昼間の市の賑わいが去った広場は、静かな暗がりに沈んでいた。あちこちに焚かれた篝火だけが、荷馬車の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。護衛たちは交替で見張りに立ち、それ以外の者たちは、荷の近くで思い思いに休んでいた。
市の片付けが終わり、人通りが少なくなった頃だった。男は一人で焚火のそばに座り、道具の手入れをしていた。
僕は少し離れたところで足を止め、その背中を何度も見つめた。話しかける言葉は、頭の中で何度も組み直しては崩れていた。踏み出す前に、あの日聞けなかったことを、もう聞かないまま隊列を見送るのだけは嫌だと思った。それだけを決めて、僕は焚火の輪の中へ足を踏み入れた。
「あの……少し聞きたいことがあるんですけど」
男は手を止め、僕をちらりと見た。焚火の灯りに、頬の陰影が浮かんでいる。近くで見ると、思っていたよりも目の色が深く、静かだった。
「……坊主、確か、積み荷を手伝ってくれた子だな」
「はい。それと――前に、一人で村に来られたときも、僕、お話ししました」
男の手が、一瞬止まった。手入れをしていた道具の刃が、焚火の灯りを鈍く反射する。
「……何のことだ」
「交易帳簿の話です。境の話は禁忌が強い、って書かれてたページのことを聞いたら、急に予定を切り上げて村を出て行かれました」
しばらく沈黙が流れた。焚火のはぜる音だけが、その間を埋めていた。護衛たちの見張りの足音が、遠くで規則的に響いている。
「……よく、覚えてるもんだな」
男は、ようやく口を開いた。低く、静かな声だった。
「あのときは、少し……驚いた。子供に、あんなところを見咎められるとは思ってなかった」
「あの、そんなに変なこと聞きましたか」
「変、というより……鋭すぎた。この谷じゃ、誰もあの帳簿の注記の意味を聞いてこない。大抵の子供は、帳簿なんて覗きもしないし、覗いたところで、注記の一行なんて気にも留めん」
男はそう言いながら、僕の顔をもう一度確かめるように見た。
(あの注記――あれは、やっぱりただの言い回しじゃなかったんだ)
「あの注記、どういう意味なんですか」
男は手にした道具を、ゆっくりと布で拭った。手の甲には、長年の商いで刻まれたらしい、細かな傷跡がいくつも残っていた。
「……坊主。この谷を出て、もっと外を回ってみれば分かる。"疑うな"って言葉は、この村だけの決まりじゃない」
「そんなに広く?」
「とんでもなく広くだ。理由までは、まだ坊主に話せることじゃない」
男の目が、一瞬だけ遠くを見るような色を浮かべた。焚火の灯りの向こう、村の外へ続く暗い道の方角を見ているようだった。その目の動きだけで、彼が実際にどれだけの距離を、どれだけの年月をかけて渡り歩いてきたのかが、なんとなく伝わってきた。
男はそう言って、それ以上は語らない構えを見せた。だが、その口ぶりには拒絶というより、慎重さのようなものが滲んでいた。
「教えてもらえないなら、それは、もう聞きません。でも、いつか教えてもらえる日が来たら――ちゃんと聞きたいです」
男は少しの間、黙って焚火を見つめていた。それから、ふっと息を吐くように言った。
「一つだけ、言っておく」
男は焚火の向こうから僕をまっすぐに見た――その目には、これまでのやり取りにはなかった静かな真剣さが浮かんでいた。
「お前みたいに疑いを飲み込まずに、そのまま突き進む子供はそう多くはない。それが良いことか悪いことかは、まだ俺にも分からん。だが……覚えておいた方がいい。この谷の外には、お前が思ってるよりもっと広くて、もっと歪んだものが待ってる」
その言葉の重さに、僕は思わず息を止めた。焚火の炎が、ぱちりと小さく爆ぜる音がやけに大きく響いた。
「あなたは……その"歪んだもの"を、見てきたんですか」
僕の声は、思ったよりも小さく震えていた。
「見てきた、というより……ずっとその中を渡り歩いてきた、というほうが近いな」
男はそう言って、初めてかすかに笑ったように見えた。それは、決して明るい笑みではなかった。むしろ、長い年月をかけて何かを諦めた末に浮かぶような、静かな笑みだった。
「僕も、いつかそこを渡り歩くことになるのかな」
「さあな。それは、坊主自身が決めることだ。ただ決めるにしても……何も知らないまま決めるのと、少しでも知った上で決めるのとでは、話が違ってくる」
「あなたの名前を聞いてもいいですか」
男は少しの間、僕を見つめていた。
「……ガイル。ガイル・ソーンだ」
「ガイル・ソーン……」
「名前は、ガイル・ソーンだ。次に会うときまで、忘れずにいろ」
その一言だけを残し、ガイルは焚火の始末をはじめ、それ以上は何も語らなかった。僕もそれ以上は問いを重ねず、静かにその場を離れた。護衛たちの見張りの足音だけが、広場の外れまで、規則正しく響いていた。
広場を抜け、家へ続く道に出ると、村の灯りがいつもよりずっと遠く感じられた。ガイルが語った"歪んだもの"という言葉が、まだ耳の奥に居座っている。それが具体的に何を指すのか、まだ僕には見当もつかない。だが、あの落ち着いた声で言われたからこそ、余計に重く響いた気がした。
家までの道を歩きながら、僕は今聞いた言葉の中身よりも、それを口にしたときの静かな笑みのことを、何度も思い出していた。人を大勢見てきた者だけが持つ、あの疲れたような笑い方。リゼに話したら、きっと同じ顔をするだろうか――そんな考えが、ふと頭を過ぎった。
胸の奥で、棘が、また静かに疼いた。
その夜、僕はなかなか眠れなかった。天井の木目を見つめながら、焚火の向こうで見せたあの静かな笑みと、"歪んだもの"という言葉の重さを、何度も思い出していた。
ガイル・ソーン――その名前を、口の中で小さく繰り返してみる。これまで感じてきた"疑うな"という決まりの広さは、既に知っていたはずのことだ。でも、それを見てきた人間の名前を、今日初めて手にした。そのことだけで、あの禁忌が、急にずっと近いものになった気がした。
次に会うとき、彼はきっともう少し多くのことを話してくれるだろう。そう思いながら、僕は名前を、確かに覚えておくことにした。
ガイル・ソーンという名前、ようやく出せました。




