「儀式で何も出なかった子がいた」
村に、小さな行商の一家が立ち寄った。両親と、まだ小さな男の子――僕たちよりいくつか年下の子供を連れた一家だった。品物を広げるでもなく、ただ村を通り過ぎる途中で一晩だけ宿を借りるという。
宿屋の一件から、数日が経っている。あの「視察」という言葉は、まだ答えの出ないまま頭の隅に居座り続けていたが、今は目の前の一家の方が気になった。
「あの一家、どこから来たんだろうね」
リゼがそう言うと、井戸端にいた女が答えた。
「ずいぶん遠くの集落だって話だよ。灯の谷のもっと奥の方らしい」
「奥の方って、どのくらい遠いんですか」
僕がそう聞くと、女は首をかしげた。
「さあ、詳しくは知らないけどね。ここまで来るのに、ひと月近くかかったって、あの父親が話してたよ」
ひと月――行商人が語る帳簿の村の数を思い出せば、それだけの距離を旅する間にいくつもの集落を通り過ぎてきたはずだった。その一家の子供が境ノ村とは違う「当たり前」を知っているとしたら、それは決して不思議なことではない。
「あの子、暇そうにしてるね」
リゼが広場の隅で所在なさげにしている男の子を見てそう言った。僕らは何気なく声をかけてみた。
「暇なら、一緒に遊ぶ? 何して過ごしてるの」
男の子は最初、少し警戒するような顔をしていたが、すぐに笑顔を見せた。
「うん! でも、もうすぐ出発するから、あんまり時間ないんだけど」
三人で広場の隅で石を並べる遊びをしながら他愛のない話をした。話すうち、男の子は自分の村――ここよりだいぶ離れた別の集落の話を無邪気に語りはじめた。
「うちの村でも、今度、目覚めの儀があるんだ。俺の兄ちゃんが、もうすぐ十五歳になるから」
「目覚めの儀、うちの村と同じなんだ」
「うん、大体同じだよ。ただ、うちの方は聖具に触れる前に、みんなで三回、手を打つんだ。境ノ村は、そういうのないの?」
僕は思わず、リゼと顔を見合わせた。
「うちは、そんなことしないよ。聖具に触れる前は、ただ祝詞を唱えるだけ」
「え、そうなの? 変だな。うちだと、三回手を打たないと星の恵みが来ないって言われてるんだけど」
(手を打つ回数まで、村ごとに違う。でも、意味はきっと同じなんだろう)
男の子は、それ以上特に気にする様子もなく、話を続けた。
「そういえば……うちの村にも、儀式で何も出なかった子が、一人いたんだ。もう何年も前だけど。みんな、あんまり話さないようにしてるけど」
思わず聴き返した。
「何も出なかった?」
「うん。聖具に触れても、何も起きなかったんだって。父さんも、その話をするとき、いつも急に静かになるんだ」
その言葉に、男の子自身は特に重さを感じていないらしかった。すぐに石遊びの続きに戻ってしまう。
胸の底に、ざわりとした感触が残った。
(何も出なかった子。境ノ村では、そんな話を聞いたことがない。それとも――この村にも、同じように語られない誰かが、いるんだろうか)
その日の午後、男の子の父親が荷馬車の修理をしている間、少しだけ僕らと話をした。
「うちの子、何か変なこと話してませんでしたか」
「いえ、目覚めの儀のことを、少し教えてもらっただけです」
父親は、少し苦い顔をした。
「ああ……。あいつ、まだ小さいからあまり分かってないんですよ。よその村と、うちの村の違いなんて話すもんじゃないって、俺も何度も言ってるんですけどね」
「話すもんじゃない、って、決まってるんですか」
父親は、僕の質問に一瞬だけ言葉を選ぶような顔をした。
「決まってる、というか。まあ、無駄に混乱を招くだけだから、って話ですよ。村によって、多少のやり方の違いはあるにしても意味が変わるわけじゃないですし」
その言い方には、村長フェインやあの行商人が使った言葉と同じ響きがあった。
僕は、少しだけ踏み込んでみることにした。
「儀式で何も出なかった子のことも、話すもんじゃないってことですか」
父親の顔から、一瞬で愛想笑いが消えた。
「――誰から、それを聞いた」
それまでとは違う、低い声だった。
「お子さんから、少しだけ」
父親は口を固く閉じたが、僕はあえて、もう一歩踏み込んでみた。
「その子のこと、まだ覚えてるんですか」
父親はぴくりと肩を揺らし、それから小さく、苦い声で言った。
「……忘れられるかよ、そんなもん」
昔話にしては、あまりに即座の答えだった。ただの遠い記憶なら、そんな速さで言葉は出てこない。父親は言った直後にまた口を固く閉じ、それ以上は何も言わなかった。だが、その反応だけで、僕には十分だった。よその村との違いを話すな、というだけの注意と、この件への反応は、明らかに重さが違っていた。
その日の夕方、一家は荷物をまとめ、次の集落へ向けて出発していった。男の子は去り際に、僕らに向かって元気よく手を振った。
「またどこかで会えたらな! 境の外にはもっと色々あると思うよ!」
その一言が、いつまでも耳に残った。
「境の外にはもっと色々ある……」
リゼが、その言葉を繰り返すように呟いた。
「うん。あの子は、多分深い意味で言ったわけじゃないと思うけど」
「それでも、その言葉、なんだか重い気がする」
「僕も、そう思う」
その夜、リゼにだけ、父親の反応のことを話した。
「儀式で何も出なかった子のことを聞いたら、あの父親の声が急に変わったんだ。よその村の話をするなっていう注意とは、明らかに違う感じで」
リゼは、しばらく黙って僕の顔を見ていた。
「その子、今もどこかにいるのかな」
「分からない。でも、父親の反応を見た限り、ただの昔話じゃない気がする」
リゼは小さく息を吐いて、それ以上は何も言わなかった。ただ、その沈黙の長さが、彼女なりの答えのようにも思えた。
家に戻ってから、僕は今日聞いたことを、もう一度頭の中で並べ直した。手を打つ回数の違い――そんな小さなことよりも、ずっと引っかかっているのは、あの一言だった。
儀式で何も出なかった子。もう何年も前の話だというその子は、いったいどうなったのか。父親の反応を見る限り、それはただの昔話では済まない何かだった。
村ではないどこかで、同じように「何も出なかった」誰かが、今も静かに語られないまま生きているのかもしれない。あるいは――もう、生きていないのかもしれない。
それに、あの子は僕と同じ年頃だったはずだ。もし境ノ村で同じことが起きたら――目覚めの儀で何も出なかった子は、この村では、どんな扱いを受けるんだろう。考えたことすらなかった問いが、初めて頭に浮かんだ。
あの父親が見せた、一瞬の硬い顔だけが、いつまでも頭に残っていた。あの子は、いったいどうなったんだろう。
他愛のない世間話のつもりが、思ったより大きな話になりました。




