名前のない客が、毎月決まった長さだけ泊まる
宿屋の主人に頼まれた繕い物を届けるのは、セルマの昔からの仕事だった。今日はその使いを、僕が代わりに任された。
「ついでに、繕い賃も受け取ってきてね。数え間違えないように」
セルマにそう言われ、僕は繕い物を抱えて村の宿屋へ向かった。
途中、広場でカイルに会った。
「どこ行くんだ、そんな大荷物抱えて」
「セルマの使いで、宿屋に繕い物を届けに」
「宿屋か。俺、あそこの飯、たまに手伝いに行くけど主人、あんまり余計な話しないよな。商売柄なのかね」
「そうなんだ」
「まあ、行ってこいよ。俺は自衛団の詰所に用があるから、こっちだ」
カイルはそう言って軽く手を振り、別の道へ去っていった。何気ないその一言――主人が余計な話をしない、という印象――が後になって妙に的を射ていたことに、僕はまだ気づいていなかった。
境ノ村の宿屋は、外からの来客が少ないぶん、普段は静かなものだった。だが、玄関先に立つと帳場の奥で主人が何かを台帳に書き込んでいるのが見えた。
「こんにちは。セルマから、繕い物を届けに来ました」
「ああ、ノアか。ご苦労さん」
主人は繕い物を受け取り、代金を数えながら帳場の台帳を僕の目の前に置いたままにしていた。
何気なく目を落とすと、そこには月ごとの宿泊記録が並んでいた。名前、泊まった日数、支払われた額――そのどれもが、いつもと同じありふれた帳面のはずだった。
だが、ある一行に、僕は思わず目を止めた。
「――名なし。三日間、宿泊」
名前の欄が空白になっている。しかも、その空白の行だけ毎月、同じ日数、同じ支払額で律儀に記帳されていた。
(名前のない客が、毎月決まった日数だけ泊まってる。しかも、支払われた額まで、いつもぴったり同じだ。ただの宿泊記録なら、こんなに揃うはずがない)
「あの、これ、名前が書いてないですけど」
僕がそう聞くと、主人の手が一瞬止まった。
「……それは、見なくていいものだよ」
「でも、毎月、同じように泊まってるみたいで」
「よく見てるな、お前」
主人は苦笑いのような表情を浮かべたが、その目は少しも笑っていなかった。
「別に悪いことをしてるつもりで見たわけじゃないです。ただ、名前がないのに、こんなに正確に記帳されてるのが不思議で」
主人はしばらく黙り込み、帳場の奥を一度だけ振り返った。誰もいないことを確かめるような、そんな動きだった。
「……坊主、これは、誰にも話さないでくれよ」
「話しません。ただ、知りたいだけです」
主人は僅かに声を落として言った。
「あれは、"視察"の人だ。名前は聞くな、って宿を継いだときに、先代からそう言われてる」
背筋に、冷たいものがすっと走った。
(視察――誰の、何の視察なんだ。名前も聞くなと言われて、それでも毎月泊めなきゃいけない客が、この村にいるっていうことか)
「視察って、誰が、何のために?」
「知らんよ、そこまでは。ただ、来る日にちだけは、いつも前もって決まって伝えられる。あの人が泊まる夜は、部屋を空けておくのが宿屋としての決まりだ」
「その人、どんな人なんですか。会ったことは?」
「……会ったことは、ある。だが、それ以上は言えない。俺だって、余計なことは知りたくない」
僕は、鎌をかけてみることにした。
「三日間って、ちょうど今の獣の出動と同じ間隔ですよね。何か関係、あるんですか」
主人の手が、台帳の上で止まった。ほんの一瞬だったが、それだけで十分だった。
「――知らんよ、そんなもの。お前、勘だけで妙なこと言うのはよくないな」
否定の言葉のわりに、その声はいつもより固かった。当てが外れたなら、こんな慌てた返しにはならないはずだった。
主人はそう言って、台帳をぱたんと閉じた。それ以上は何を聞いても答えるつもりはないらしかった。
「代金は、ここに置いておくよ。今日は、もう帰りな」
僕は繕い賃を受け取り、宿屋を出た。振り返ると、主人は帳場に座り直し、何事もなかったように別の記帳作業に戻っていた。
家までの道を歩きながら、僕は「視察」という言葉を、何度も頭の中で繰り返した。
村の外から名前を隠したまま、定期的に泊まりに来る誰か。それが村の何かを見て回っているとしたら――塩の配給を管理する倉、目覚めの儀の聖具、獣の規則性。これまで見てきた断片のどれかに、その"視察"は繋がっているのかもしれない。
夕方、リゼと井戸端で会ったとき、僕はそのことを話した。
「宿屋の帳簿に、名前のない客の記録があったんだ。毎月、決まった日数だけ泊まってて」
「名前がないのに、毎月?」
「うん。宿の主人は、"視察"の人だって言ってた。名前は聞くな、って言われてるらしい」
リゼは、少し不安そうな顔で僕を見た。
「視察……。誰が、何のために、そんなことしてるんだろう」
「分からない。でも、この村には、僕たちが知らないところで誰かが見て回ってることが確かにあるんだと思う」
「怖いね、それ」
「うん。でも――今まで見てきた断片が少しずつ、一つの答えに近づいてる気がする」
リゼは小さく頷いて、それ以上は何も言わなかった。少しの間、二人とも黙って井戸の水面を見つめていた。
「その"視察"の人、いつも三日間だけ泊まるんだよね」
「うん。毎月、ちゃんと三日間」
「なんだか……あの獣の周期と、似てる気がする」
「うん。宿の主人にも、同じことを聞いてみたんだ。表向きは否定されたけど……手が止まった一瞬だけで、十分だった」
リゼは、僕の顔をじっと見つめた。
「じゃあ、ノアはもう、そうだと思ってるんだね」
「思ってる、というより――確信に近い」
三日間という数字が、獣の出動の周期にも、名前のない客の宿泊にも同じように現れている。それがただの偶然なのか、それとも村の見えないところで動く何かの共通した歩幅なのか――僕にはまだ判断がつかなかった。
灯りの並びのことは、もう気にならなかった。
視察に来る誰か。それがもし、村のあらゆる「揃いすぎたもの」を、あちこちで確かめて回っているのだとしたら――塩の配給、聖具、記録帳、獣の規則性、そして僕自身。いつかその視察の目が僕に向くことがあるのだろうか。
考えれば考えるほど、その可能性は決して的外れには思えなかった。誰も名前を知らないまま三日間だけ泊まり、また静かに去っていく客。その正体を知っているのは、宿の主人と名主一族と、あるいは調律士オーレンだけなのかもしれない。
答えの出ないまま、僕は布団に入った。それでも、頭の隅には名前のない客の記録が、ずっとこびりついていた。
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