避けられた小屋
村では、また獣の出動があった。今回は境の柵の際、外れの区画での出現だった。
自衛団の後片付けを手伝いに行った帰り、僕はふと、あの台帳で覚えた出現地点の並びを思い出した。あの流れ者の一件以来、こつこつと書き足してきた、獣の出現場所の簡単な地図だ。あの帯の刻印のことは、まだ誰にも見せていない。紙に書き写した線の並びを、僕は時々、引き出しから取り出して眺めていた――それも、この地図と同じように、答えの出ないまま抱えているものの一つだった。
家に帰って、その地図を広げ、今回の出現地点を書き加える。
そこで、あるひとつのことに気づいた。
これまで書き込んだ出現地点は、境の柵沿いに、ほぼ均等に散らばっている。だが、一箇所だけ、まったく印がついていない区画があった。柵のちょうど中ほど、少し奥まった林の一角だった。
喉の奥が、ひやりと冷えた。
(この区画だけ、一度も獣が出た記録がない。周りにはあれだけ頻繁に出ているのに、なぜここだけ綺麗に避けられているんだろう)
念のため、もう一度、これまで書き足した半年分の記録を見返してみる。柵沿いのどの区画も、多いときも少ないときも含めて、必ず一度か二度は獣の出現があった。だが、あの空白の区画だけは、半年間一度たりとも記録が書き込まれていない。まるで、そこだけ最初から線を引いて、外されているかのようだった。
翌日、僕はその区画を確かめに行ってみることにした。カイルに一緒に来てもらう。
「わざわざ、こんなところまで来る必要あるのか」
「ちょっと確かめたいことがあって」
林の中を進むと、確かに他の場所より静かだった。獣の気配どころか、鳥の声さえどこか薄い気がする。木々の隙間から漏れる光も、やけに乏しく、まるで林全体が周りとは違う空気で満たされているようだった。
境の柵に沿って歩くうち、僕は柵の継ぎ目に目を留めた。村道に近い側と、裏手の尾根側は、板も針金もまだ白木の色を残すほど新しく継いである。ところが、反対側の斜面に面した一列だけ、古い柵がそのまま残されていた。朽ちた板の隙間から、獣道らしい踏み跡が、林の奥へ向かって伸びているのが見えた。
しばらく歩くと、木々の間に、古い小屋が見えた。壁の一部が崩れ、屋根も傾いているが、完全な廃屋というわけではない。
「見張り小屋、だよな。使われてるのか、これ」
カイルがそう呟いた。
僕は小屋に近づき、入り口の扉に手をかけた。閂は掛かっていない。少し力を入れると、軋んだ音を立てて、扉が開いた。
内部は薄暗く、埃をかぶった台と古い椅子がひとつあるだけだった。だが、床の一部にだけ埃の積もり方が薄い場所があった。まるで最近そこだけ、誰かが踏んで通ったかのように。
「本当に誰も使ってないなら、こんなに歩いた跡、残らないよな」
カイルも、その擦れた床に目を留めて、少し声を落とした。
(この小屋、誰も使ってないはずなのに、床の一部だけ埃が新しく擦れてる。それに、この区画だけ獣が出ない。もし誰かが定期的にここへ来ているなら)
「なあ、ここ誰も使ってないはずだよな」
「うん、聞いたことないな。もう長いこと、放置されてる小屋だって話だけど」
僕は台の上を確かめた。目立った物は何もない。だが、隅に置かれた小さな木箱の縁に、まだ新しい擦り傷が残っていた。木箱の中は空だったが、内側には何かを何度も出し入れしたような、細かな線が残っている。
「これも、置きっぱなしのものにしては、綺麗すぎる気がする」
僕がそう呟いたとき、外で足音がした。
「――お前ら、こんなところで何をしている」
戸口に、自衛団の隊長格の男が立っていた。低く抑えた声には、これまで村人から向けられたことのない明確な警戒の色があった。
「見張り小屋を、見てただけです」
「見張り小屋? ここは、もう使われていない場所だ。子供が近づく場所じゃない」
「使われてない、って……。でも、床に、新しい足跡みたいなものが」
男の表情が、わずかに動いた。
「余計なことを気にするな。ここは、獣の出ない安全な区画だ。それだけで十分だろう」
「安全なのは、なぜですか」
「知らん。そういうものだ、と昔から決まっている」
「決まってる、なら、誰が最初に決めたんですか」
男は僕の問いには答えず、ただ一度、強く息を吐いた。その沈黙のほうが、どんな言葉より、答えの重さを物語っていた。
男の声には、それ以上の説明を許さない硬さがあった。
「さっさと戻れ。今日のことは、報告する」
カイルは僕の袖を引いて、外へ促した。僕はそれ以上何も言わず、小屋を後にした。
外に出てから、カイルが小声で言った。
「あの人、ずいぶん本気で怒ってたな。ただの空き小屋にしては」
「うん。空き小屋なら、あんなふうに焦る必要ないはずだと思う」
「お前、あの隊長に睨まれて、これから面倒なことにならないか」
「分からない。でも、今、確かめておかないと、この違和感は、ずっとこのままになる気がする」
カイルはそれ以上何も言わず、少し複雑な顔で歩き続けた。以前なら「気にするな」の一言で済ませていたはずの彼が、今は黙って隣を歩いてくれている。それだけでも、この数か月の間に彼の中で何かが変わったのだと、僕には分かった。
家に戻ってから、僕は地図のあの空白の区画に印をつけ直した。獣が出ない、その理由は分からないままだ。だが、あの床の擦れた跡と、隊長の男の反応――少なくとも、あの区画が誰にも管理されていないただの空き地ではないことは、確かだった。
夜、窓辺に立つと、境の柵の方角だけが、やけに静かに見えた。カーテンを閉めながら、僕はあの小屋の床に残っていた擦れた跡のことを、もう一度思い返していた。
胸の底に、重い沈黙が残った。
獣が避ける区画、そこにひっそり残る小屋、そして最近そこを踏んだ誰かの足跡。この村には、誰も語らない場所が、まだいくつも隠れているのかもしれなかった。
翌朝、リゼに昨日のことを話すと、彼女は珍しく、すぐには相槌を打たなかった。
「隊長さんが、そこまで焦るなんて……。ノア、次はもう一人で行かないでね」
「一人じゃなかったよ。カイルと一緒だった」
「それでも。あの区画、もう近づかない方がいいと思う」
リゼの声には、いつもの明るさの下に、はっきりとした心配が滲んでいた。僕はそれに頷きながらも、内心では、あの床の擦れた跡のことを、まだ考え続けていた。
その日の午後、僕はカイルと一緒に、柵際の下草刈りに出た。境ノ村では、獣の出動が続いた区画の周りを、村人総出で見通しよくしておく決まりがある。
刈った下草を束ねているとき、少し離れた木立の向こうから、低い唸り声が聞こえた。
「――今の声、あの避けられた区画の方からじゃないか?」
近くにいた男が、鎌を放り出すようにして立ち上がった。周りの村人たちも一斉にざわめき、何人かが避けられた区画の方角へ駆け出していく。
僕は地図を思い浮かべた。半年分、こつこつと書き足してきた、獣の出現場所の記録。あの区画には、一度も印がついていない。それに、あの日見た柵の継ぎ目のことも頭に浮かんだ。だとすれば、今の唸り声は――
「違う、そっちじゃない」
思わず、声が出た。近くにいたダレンと、駆け出そうとしていたカイルが、同時に足を止めて僕を見た。
「何言ってるんだ、今の声、確かにあっちから――」
「あの区画の柵は、村道側と尾根側が新しく継いである。継いでないのは、反対側の斜面に面した一列だけだ。獣道の跡もそっちに向かって伸びてた。抜けられる隙間があるなら、反対側の斜面しかない」
自衛団の男たちの何人かが、足を止めてこちらを見た。半信半疑の顔ばかりだった。それでも、ダレンが一歩前に出た。
「――一応、あっちも見ておいた方がいい。ノアがそこまで言うんだ」
その一言に、自衛団の数人が、渋々ながらも反対側の斜面に目を配り始めた。
しばらくして、案の定、反対側の斜面の木立が大きく揺れた。灰色の毛皮の獣が一頭、そこから飛び出してくる。
「来た! 反対側だ!」
先に配置を変えていた自衛団の男たちが、すぐに獣を取り囲んだ。柵の一部が壊れただけで、獣は間もなく討伐され、大きな被害もなく片が付いた。
後片付けが終わったあと、あの隊長格の男が、僕の前に立った。
「――さっきは、悪かったな」
低い声だったが、周りにいた自衛団の数人にも、はっきりと聞こえる声だった。
「お前の言った通りだった。反対側に人をやってなかったら、もう少し被害が出てたかもしれん」
「地図を見てただけです。誰でも分かることだと思います」
「誰でも、じゃないさ」
隊長は、そう言って僅かに息を吐いた。
「お前の"勘"、他にどれだけ当たってるのか、少し気になってきたな」
そう言い残すと、隊長は片付けの指示に戻っていった。カイルとダレンが、それぞれ違う顔で僕を見ていた。カイルは呆れたような驚きを、ダレンは以前よりずっと近い距離で、僕を見ていた。
家に戻ってからも、隊長の一言が耳の奥に残っていた。あの区画のことも、床の擦れた跡のことも、まだ何も分かってはいない。それでも、地図に書き足してきた記録が、初めて誰かの前で確かに役に立った。
読んでいただき、ありがとうございます。今回は少し会話多めの回でした。




