重なる歌
井戸端の水音に混じって、聞き覚えのある旋律が流れてきた。
「水は巡り、種は眠り、星の恵み、絶やすなかれ――」
隣の集落から嫁いできたという老婆が、洗濯をしながら口ずさんでいる。境ノ村の子供たちが物心つく前から教えられる数え歌、節回しも歌詞も、一字一句同じだった。水を叩く音、桶がこすれる音、女たちの立ち話の声――いつもと変わらない井戸端の風景の中に、その旋律だけが妙に馴染みすぎていた。
「その歌、こっちの村の歌ですよね」
僕がそう声をかけると、老婆は少し驚いた顔をして手を止めた。
「あら。それは、わたしが嫁ぐ前の村で覚えた歌だよ」
「歌詞まで、うちの村と一緒に聞こえました」
「そうかもしれないね。数え歌なんて、どこの村でも似たようなものだろう」
老婆はそう言って、また洗濯物に手を戻した。周りにいた女たちも、特に気にする様子もなく、それぞれの作業を続けていた。
(似たようなもので片付けられる話じゃない。「水は巡り、種は眠り」なんて独特な言い回しが、一字一句同じなんてあるはずがない)
僕は洗濯場を離れず、傍にいた別の女にも同じことを聞いてみた。
「すみません、この歌、いつ覚えたか覚えてますか」
「小さい頃からだよ。母に教わった気がするけど、なんでそんなこと聞くんだい」
「歌詞を間違えて覚えてる人とか、いませんか。節が少し違うとか」
「さあ、聞いたことないねえ。うちの子も、姉の子も、みんな同じ節で歌ってるよ」
僕は少し離れたところで桶を運んでいた別の女にも、同じことを聞いてみた。
「その歌、覚えてます? 『水は巡り、種は眠り』って歌なんですけど」
「ああ、それなら知ってるよ。うちの子にも、小さい頃からずっと歌わせてる」
「歌詞、間違えたりしませんか」
「間違えるも何も、決まった通りにしか歌ったことないねえ。何言ってるんだい、この子は」
女はそう言って、少し笑いながら桶を担ぎ直し、その場を離れていった。答えは、やはり同じだった。子供の頃、当たり前のようにこの歌を教わり、誰もその言葉を疑ったことはないらしい。
三人が三人とも、まったく同じ歌詞を、まったく同じ節で教わっている。偶然が積み重なった結果には見えなかった。
僕は老婆の作業が終わるのを待って、もう一度声をかけた。
「その歌、誰に教わったんですか」
老婆は少し困った顔をした。
「昔のことだよ。ちゃんと覚えてるわけじゃないけど……」
「隣の集落でも、この歌が広まったのって、最近のことですか。それとも、もっと前から?」
「さあ。わたしが子供の頃には、もう歌われてたよ」
老婆はしばらく黙り込んだあと、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、昔、調律士様が集落を回って、子供たちにこの歌を教えてくれたことがあったね。ずいぶん昔の話だけど」
その一言に、僕は思わず息を止めた。
「調律士様が、歌を?」
「ああ。うちの集落だけじゃなくて、あちこちの村を回って同じ歌を教えていたって、母が言っていた気がする。なんで、こんな昔の話、してるんだったかね」
老婆は自分の言葉に、少し戸惑ったような顔をした。
(調律士が、複数の集落を回って同じ歌を教えていた。だとしたら、この歌が一字一句同じなのは偶然の一致じゃない。誰かが意図的に、同じものをあちこちに配って歩いたということだ)
「教えて回るとき、いつも同じ歌詞を歌ってたんですか。それとも、集落ごとに少し変えてたとか」
「変えてた覚えはないねえ。子供たちに一句ずつ、そのまま覚えさせてたはずだよ」
そのとき、井戸端の奥から老婆の息子らしい男が足早にやってきた。
「母さん、こんなところで何をしてるんだ。もう戻ろう」
「ああ、ちょっと世間話をしていただけだよ」
「……世間話にしても、こんな昔のことまで、いちいち話すことじゃないだろう」
男の声には、あからさまな苛立ちがあった。
「昔のことを話しただけで、何がいけないんだ」
老婆が、少しむっとしたように言い返す。
「別にいけないとは言ってない。ただ、余計なことを喋って面倒に巻き込まれるのはごめんだって話だ」
「面倒に? わたしは、村の歌の話をしてただけだよ」
息子は僕の方をちらりと見て、それ以上言葉を続けなかった。ただ、その視線には、僕を値踏みするような硬さが混じっていた。
老婆は困ったように僕を一瞥し、そのまま息子に連れられて洗濯物を抱えて去っていった。腕を引かれながらも、老婆は一度だけ振り返り、まだ何か言い足りないような顔をしていた。
僕はその場に立ち尽くしたまま、二人の後ろ姿を見送った。喉の奥が、ひやりとした。
(別に危険な話をしたわけじゃない。ただの昔話だ。なのに、あの息子は、なぜあんなに焦っていたんだろう)
その日の午後、僕はダレンを探した。名主一族なら、隣接する集落との取引記録に何か手がかりがあるかもしれない。
「なあ、うちの数え歌って、隣の集落でもまったく同じ歌詞で歌われてるって知ってた? しかも、調律士様が教えて回ったらしいんだ」
ダレンは足を止め、珍しく真剣な顔をした。
「調律士様が、村の外まで出向いて歌を教える? そんな話、初めて聞いたな」
「うちの取引先の集落にも、同じ歌があるか、確かめられないかな」
ダレンは少し考えるように黙ったあと、うなずいた。
「親父の帳面に、隣の集落との文のやり取りが残ってる。歌のことまで書いてあるかは分からんが、見てくる」
僕は広場の隅でその半刻を待った。日差しが少しずつ角度を変えていくのを眺めながら、頭の中では、これまで積み重ねてきた小さな違和感を順に並べ直していた。塩の配給の量。目覚めの儀の聖具。そして今、この歌。どれも、ひとつだけなら見過ごせる違和感だった。
やがて、ダレンが少し息を切らせて戻ってきた。手には数枚の古い紙束を抱えている。
「悪い、思ったより時間がかかった。倉の奥の木箱、埃がすごくてな。最初に出てきたのは五年前の穀物の取引記録で、これじゃ話にならないと思って、もっと奥まで探した」
差し出された紙のうち、一枚は数字ばかりが並んだ帳面で、目当ての言葉は見当たらなかった。ダレンはそれをすぐに脇へ置き、残りの束をもう一度めくり直した。
「――あった。これだ。三年前、隣の集落の名主から届いた文に、村の祝いの席で歌う歌の一節が引用されてた。読んでみろ」
差し出された紙には、確かに「水は巡り、種は眠り」の一節が、そのままの形で書かれていた。
「本当に同じだ」
「妙だな。名主一族の倉のことといい、今度の歌のことといい、お前の話は聞くたびに面倒なことになってる気がする」
「面倒だと思うなら、忘れてくれてもいいよ」
「そうは言ってない。ただ、次に何か分かったら、真っ先に俺に言え。それだけだ」
ダレンはそう言い残し、いつもより落ち着いた足取りで去っていった。以前のような、見下すだけの態度は、もうそこにはなかった。
広場を出ようとしたところで、荷車を引く行商人に呼び止められた。年に数えるほどしかこの村を訪れない行商人の一人で、塩と布を売り歩いているという。彼の商いの道筋は、隣の集落よりもさらに遠く、山を三つ越えた向こうの土地まで続いている。
(もし本当に、同じ手が同じ歌をあちこちに配って歩いたなら――この人の行き先の、もっと遠い集落にも、同じ歌詞が残っているはずだ)
「おじさん、山向こうの村でも、子供が歌う歌ってありますか。『水は巡り、種は眠り』って始まる歌、知りませんか」
行商人は荷を下ろす手を止め、少し驚いた顔をした。
「知ってるも何も、あっちの村でも同じ歌を、赤ん坊の頃から聞かされるもんだよ。『水は巡り、種は眠り、星の恵み、絶やすなかれ』――そうだろう?」
一字一句、僕が知っている歌詞とまったく同じだった。
「山を三つも越えた先まで、同じ歌詞なんですか」
「そういうもんさ。俺が商いで回る村は、どこもだいたい似たようなことを教えてる。珍しいことじゃない」
行商人はそう言うと、また荷車を引いて歩き出した。珍しいことじゃない、とその男は笑って言ったが、僕にとっては予想が当たった証拠だった。ダレンの書状は、隣の集落との文のやり取りという、限られた範囲での裏付けだった。だが今、まったく別の道筋からやってきた行商人の口から、想定していた通りの言葉が出てきた。
(予想通りだ。これは、隣の集落だけの話じゃない。もっと広い範囲に、同じ手が同じものを配って歩いている)
家に戻ってから、僕はダレンの書状の写しを、これまでの断片の隣に並べた。塩の配給の量。目覚めの儀の聖具。そして今日、紙の上と、行商人の口の両方から裏付けが取れた数え歌。ひとつひとつは些細な違和感でも、こうして証拠が重なると、同じ手が同じ時期にあちこちへ足を運んだ痕がはっきり見えてくる。
だとしたら、あの人はなぜ、わざわざ自分で集落を回ってまで歌を教えたんだろう。紙に書いて配るだけでも、同じことはできたはずなのに、直接、子供たちの前に立って歌わせた。手間をかけてでも、そうしなければならなかった理由が、きっとある。
次に調律士様に会う機会があれば、今度こそ、その理由を確かめてみたかった。
調律士の話が少し広がった回でした。評価やブックマークで応援していただけると励みになります。




