リゼも同じ光を見ていた、と打ち明けられた
その日の午後、リゼと二人で、村の外れにある小川まで足を延ばした。洗濯物を運ぶついでに、少し遠回りをしただけだった。
途中、カイルとすれ違った。
「おう、二人でどこ行くんだ」
「小川まで、洗濯物を」
「そんなとこまで行くのか。まあ、気をつけろよ。柵の近くだから」
カイルはそれだけ言って、いつもの軽い調子で去っていった。
記録帳のあの一件は、まだ何も分からないまま、日々の中に埋もれていた。今はただ、いつもの暮らしを続けるしかない。
「このへん、涸れずにずっと流れてるんだよね。不思議じゃない?」
リゼがそう言って、川面を覗き込んだ。
僕もその横に並んで、水面を見た。
日差しを受けて、川はいつも通り、静かに流れている。
だが、少し上流の、岩陰になった一角だけ、水面に妙な光の膜が浮いているのが見えた。
「あれ……」
「どうしたの?」
「あの辺、水の色が変じゃないか。油みたいな膜が張ってる」
リゼも視線を向け、目を細めた。
「言われてみれば……。虹色っていうか、薄く光ってる」
僕はしゃがみ込んで、その部分の水を、小さな器ですくい取った。
膜のようなものが、水面に薄く広がっている。手のひらに少しすくうと、独特の粘りと、かすかな光沢が残った。
喉の奥が、すっと冷たくなった。
(油なら、村で使う灯油とか、獣の脂とか、いくつか心当たりはある。でも、この質感は、そのどれとも違う。もっと均一で、もっと硬い光り方をしてる)
「これ……村じゃ、こんな油、見たことない」
僕がそう言うと、リゼが少し黙り込んだ。
「……ノア。実はね」
「うん?」
「わたしも、似たようなの見たことがある」
僕は思わずリゼの顔を見た。
「どこで?」
「うちの裏の井戸。夜、水を汲みに行ったとき、水面が同じように光ってたことがあって。でも、次の日には、もう何もなかった。だから……気のせいだと思って、誰にも言わなかった」
リゼの声は、いつもより小さかった。
「なんで、今まで言わなかったの」
「言ったら、また『疑い病だ』って言われる気がして。それに……本当に、気のせいかもしれないし」
背筋に、冷たいものがすっと走った。
(気のせいじゃない。井戸の底で僕が見た金属質の光と、この小川の膜、それにリゼが見た井戸の光――違う場所で、同じ質感のものが、複数回、確かに目撃されている。これは、もう「気のせい」で片付けられる数じゃない)
「リゼ、それ、気のせいじゃないと思う」
「……そうなの?」
「僕も、井戸の底で似たような光を見たことがあるんだ。それに、鍛冶屋のところで拾った金属の欠片も、同じような艶をしてた」
リゼは驚いた顔をして、それから、少し安心したように息をついた。
「じゃあ……わたしが見たのも、本当だったんだ」
「うん。本当だと思う」
そう言葉にした瞬間、リゼの表情から、これまでずっと押し込めてきたらしい何かが、少しだけ抜けたように見えた。
「ノアがいつも言ってること、少し分かった気がする。見ちゃいけないものを、見てしまったときの感じ」
「怖い?」
「怖い。でも……知らないでいるより、少しだけ、ましな気がする」
「無理しなくていいよ。少しずつでいいから」
「うん。でも、わたしも、もう少しノアの隣で見てみたい」
リゼはそう言って、小さく笑った。その笑い方には、これまでとは違う、静かな強さのようなものが混じっていた。
僕らはそのまま、しばらく小川の水面を見つめていた。膜はまだ、ゆっくりと日の光を反射している。
そのとき、後ろから声がかかった。
「――お前ら、こんな時間に、境の外れで何をしてるんだ」
僕とリゼは、同時に振り返った。
自衛団の見回りをしている大人が、こちらをじっと見ていた。その視線の奥に、いつもとは違う、明らかな警戒の色があった。
「洗濯物を、少し……」
「洗濯物なら、川上まで来る必要はないだろう。ここは、柵の見張り区域に近い」
男の口調には、これまでの村人たちのような、あきれ交じりの叱責ではない、もっと硬いものが混じっていた。
「別に、悪いことをしてたわけじゃ……」
「いいから、早く戻れ。今日のことは、報告しておく」
男はそう言い切って、僕らを見張るように、川岸に立ち尽くしていた。
「その膜のこと、報告に含めるんですか」
僕は思わず聞いた。男の顔に、わずかな戸惑いが浮かんだ。
「膜……? 何のことだ」
その反応に、僕は少し驚いた。男は、水面のことにまるで気づいていない様子だった。見えているのは、僕とリゼが立ち入り禁止の区域に近づいたという事実だけらしい。
「いえ、何でもないです」
僕はそれ以上言わず、リゼの手を取って歩き出した。
リゼが、僕の袖を小さく引いた。僕は何も言えず、彼女とともに、その場を離れるしかなかった。
歩きながら、僕はさっきの男の言葉を、頭の中で繰り返していた。
――今日のことは、報告しておく。
報告する相手は、誰なのか。ただの自衛団の記録なのか、それとも、もっと別の誰かに――たとえば、調律士オーレンのような人物に、伝わるものなのか。
窓の外の光は、もう気にならなかった。
リゼが見せてくれた小さな告白と、あの男の警戒。二つの出来事が、まったく違う場所で、同じ日に重なった。それが、ただの偶然だとは、どうしても思えなかった。
自衛団の男は、水面の膜には気づいていなかった。ということは、彼が本当に警戒していたのは、川そのものではなく、僕とリゼが柵の近くで何かを調べていたという行為そのものだったのかもしれない。
だとすれば、その報告を受けるのは誰なのか。名主一族の倉なのか、村長フェインなのか、それとも――調律士オーレンの詰所なのか。
僕は布団の中で、今日見た膜の色を、何度も思い浮かべた。井戸の底、小川の水面、そしてリゼが見た夜の光。同じ質感を持つものが、こんなに近い場所で、こんなにたくさん見つかるはずがない。誰かが、意図的にそれを隠し続けているとしか思えなかった。
隣の部屋から、セルマの寝息が聞こえてくる。いつもと変わらない、村の夜だった。それでも、僕にはもう、この静けさが、以前と同じようには感じられなかった。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。今回は少し重なりの多い回でした。




