記録帳の名前
数日後、村では、ミラの目覚めの儀が行われた。
広場に集まった村人たちの前で、ミラは聖具に手を触れ、光を受け、新しいスキルを得た。ダレンが儀式を終えたときと、同じ光景だった。
「見ろ、ミラも『癒しの手』系か。俺の姉ちゃんと同じ系統だな」
近くにいた村人が、そう言って笑った。同じ系統のスキルが代々発現していることに、誰も疑問を持っていなかった。
喉の奥に、小さな引っかかりが残った。
(同じ系統ばかり出るなんて、本当に星の恵みなら、もっとばらつくものじゃないのか。それに、この「系統」っていう言葉、誰が最初に決めたんだろう)
祝いの輪の中で、リゼが小さくつぶやいた。
「わたし、いつも思うんだけど、みんな似たようなスキルばかりだよね。もっといろんな種類があってもいいのに」
リゼの一言に、僕は小さく頷いた。彼女も、同じ違和感を覚えていたらしい。
儀式の後、祝いの場を少し離れたところで、僕は村の書庫番の老人と顔を合わせた。彼は、村の古い記録帳を管理している人物だった。
「爺さん、村の古い記録帳って、まだ残ってるんですか」
「ああ、残ってるよ。誰も見ないだろうけどな。見たいのか」
「少し興味があって」
老人は快く、書庫の奥から、色褪せた記録帳をいくつか持ってきてくれた。
ページをめくると、何十年も前の目覚めの儀の記録が、代々書き継がれていた。誰が、どんなスキルを得たか。名前と、系統名が並んでいる。
そこで、僕はふと手を止めた。
今日ミラが得たスキルの系統名は「癒しの手」だった。だが、古い記録帳の同じ系統らしきスキルの欄には、「治癒の掌」という微妙に違う名前が記されていた。
「これ……名前が、違ってませんか」
「ああ? どこがだ」
老人が覗き込むと、僕はページを指で示した。
「今のは『癒しの手』ですけど、こっちの古い記録は『治癒の掌』になってます」
老人は眼を細めて、しばらくその二つの表記を見比べていた。
「……確かに、そうだな。気づかなかった」
喉の奥がきゅっと締まった。
(言葉の意味は同じなのに、表記だけ違う。これは、誰かが途中で呼び方を変えたということだ。だったら、いつ、なぜ変えたんだろう)
「爺さん、この記録帳、途中で書き方が変わってる版があるって、聞いたことないですか」
「そういえば……。俺がまだ子供だった頃、記録帳が新しく作り直されたことがあったな。古いのは、そのまま書庫の奥にしまわれた」
「なぜ作り直したんですか」
「知らんよ。あの頃、上の連中が『記録を整理する』とか言って、いろいろ触ってた気がする。何がどう変わったのかまでは、俺も覚えてない」
老人はそう言って、遠くを見るような目をした。何かを思い出そうとして、途中で諦めたような表情だった。
「その頃、村で何かあったんですか」
「さあな……。なんだったか、少し騒ぎがあったような気もするが。もうずいぶん前のことだ」
老人の言葉は、はっきりしない曖昧な言い伝えの域を出なかった。それでも、「記録が作り直された年」に「何かがあった」という感触だけは、確かに残った。
「爺さん、その記録を作り直したのって、誰の指示だったんですか」
「誰の指示、って言われても……。名主様のところからだったか、調律士様の方からだったか、そのへんはもう覚えとらん」
「爺さん、その記録が作り直された年に、何かあったんじゃないですか。ただの整理じゃなくて」
「さあな……。俺には、そこまでは分からんよ」
老人は困ったように笑った。それでも、僕はその考えを頭から追い出せなかった。だったら、別の記録と照らし合わせればいい。
僕は書庫の棚を漁って、井戸の改修記録と毎年の祭りの開催記録を引き出した。どちらも、年号だけは律儀に書き残されている。
記録帳の書き換えがあった年を、井戸の改修記録の年号と一つずつ突き合わせていく。ページを何度も往復して、ようやく一致する箇所を見つけた。
その年、井戸の改修工事が行われていた。同じ年の祭りの開催記録にも、他の年にはない短い追記があった。
「――その年に限って、一件だけ『転入者』の記載がある」
思わず声に出してしまった。
村の外から、誰かがこの年、境ノ村に入ってきている。それも、記録帳が作り直されたのと同じ年だった。
僕は記録帳を抱えて、老人のところへ戻った。
「爺さん、見てください。記録が作り直された年、井戸の改修と、祭りの追記が、両方この年に重なってます。それに、この年だけ『転入者』の記載が一件あります」
老人は、僕が指す箇所を、しばらく黙って見つめていた。
「……言われてみれば確かに、その頃、村の様子が少し違っていたような気もするな。あの年は、なんだか大人たちが妙にそわそわしてた」
老人はそう言って、記録帳をそっと閉じた。誰かに聞かされて思い出したのではなく、自分の記憶の中から、確かに何かを見つけたような顔だった。
「そうか……。お前の言う通りだったのかもしれんな」
その一言に、僕は小さな手応えを感じた。疑って、調べて、示して、頷いてもらえた。まだ小さな一致でしかない。それでも、これまでの「保留」とは違う感触だった。
それでも、まだ何かが引っかかっていた。
記録帳の書き方が変わっただけなら、担当の誰かが言葉を揃え直しただけかもしれない。それだけでは、まだ「誰かが隠した」とは言い切れない。
僕は書庫の別の棚から、その年の収穫の記録も引き出してみた。記録帳とは何の関わりもないはずの帳面だった。前後の年と見比べると、その年の分だけ、新しい紙に別の筆で書き直されていた。
背筋が、すっと冷たくなった。
(記録帳だけじゃない。関係のないはずの収穫の記録まで、同じ年に書き直されてる。担当の誰かが気まぐれに整理したなんて話じゃない。誰かが、もっと上から「この年のことは、まとめて消せ」って言ったんじゃないのか)
行商人の、疑うなという決まりはこの谷だけの話じゃないという言葉が、ふと頭に浮かんだ。記録を書き直すことも、同じくらいあちこちで行われているのかもしれない。
「爺さん、収穫の記録も、この年だけ紙が違いますよね」
老人は帳面を、しばらく黙って見つめていた。
「……本当だ。気づかなかった。おかしいな、これは」
「二つも、同じ年にまとめて書き直されてるのって、変じゃないですか」
「変、って言われれば、変だな……。俺には、そこまでは分からんが」
老人はそう言って、記録帳をそっと閉じた。困ったような、それでも何か思い出そうとしているような顔だった。
僕は書庫を出る前に、二つの記録の該当ページを紙に書き写した。老人に借りて帰るわけにはいかない。書き終えた紙は、他の誰にも見られないよう、上着の内側にしまい込んだ。
もしまた誰かが都合の悪い記録を書き直すようなことがあったら――今度は僕の手元にも、同じものが残る。そう思うと、少しだけ背筋が伸びる気がした。
その帰り道、ダレンとすれ違った。
「なんだ、書庫なんかにいたのか。珍しいな」
「古い記録帳を見せてもらってただけ。スキルの系統名の書き方が、昔と今で違ってたんだ」
ダレンは意外そうな顔をした。
「へえ……。まあ、そういう細かいこと気にするのは、お前らしいけどな。何か分かったら、教えろよ」
その一言には、皮肉の色がなかった。むしろ、少しだけ興味を持ったような響きが混じっていた。
「そうだね。調べてみるよ」
ダレンはそう言って、いつもより落ち着いた足取りで去っていった。
少し離れたところで、リゼとすれ違った。
「ノア、今日は何をしてたの?」
「書庫で、昔のスキルの名前を確かめてた。意味は同じなのに、表記だけ揃え方が変えられた感じがするんだ」
リゼは少し不思議そうに首をかしげた。
「ノアといると、小さな違和感でも、だんだん形が見えてくるんだね」
家に戻ってから、僕は上着の内側から、書き写した紙を取り出した。
「癒しの手」と「治癒の掌」。井戸の改修と祭りの追記が重なる年。収穫の記録だけ紙質が違うこと。どれも小さな不一致だった。それでも、同じ年に関係のない記録がまとめて書き直されているという事実だけは、もう疑いようがなかった。
その年、村に一人だけ転入してきたという、名前のない誰か。老人はその名前すら覚えていないと言った。だとしても、記録にはまだ、その痕跡が残っている。
僕はこの紙を、裏山の石や金属の欠片と同じ場所にはしまわなかった。もし今度誰かが書き直そうとしたら、確かめる手立てが要る。だから、僕だけが知っている場所に隠しておくことにした。
これで、隠された何かに一歩近づけたのか、それはまだ分からない。それでも、疑って、調べて、記録を残しておく――そのやり方が、自分の中で一つの型になり始めていた。あの転入者は、今どこにいるんだろう。
静かな回でした。次はもう少し核心に近づきます。




