清めの夜
「今度はミラの番だな。楽しみだ」
広場では、村人たちがそんな話で盛り上がっていた。ダレンが真っ先に儀式を終えたときと同じ、祝祭の空気が漂っている。
「なあ、ノアはいつになったら儀式なんだ」
「僕はまだ順番が先みたいだから」
「そうか。まあ、待ってれば、そのうち順番が来るさ」
村人はそう言って、深く考えることもなく笑った。自分よりも先に真理を知ってしまった、という僕の事情を、誰も知らない。
鍛冶屋の主人のあの怯えた顔は、それからも頭から離れなかった。誰かに何かを命じられている――そんな気がしてならないが、確かめる術はまだない。裏山の石、鐘楼の刻み目、獣の出現周期、そして鍛冶屋の金属くず。集めた断片は少しずつ増えていくのに、それらを繋ぐ一本の糸は、まだどこにも見えなかった。
その日の午後、僕は用事があって集会所の近くを歩いていた。すると、白い布に包まれた聖具を抱えた若い男が、集会所から出てくるところに出くわした。
「あれ、儀式の聖具、今日運び出すんですか。まだ日にちがあるのに」
僕がそう聞くと、男は少し驚いた顔をした。
「ああ、儀式の前日には、必ず『清め』に出すことになってるんだ。知らなかったか」
「清めですか」
「詳しいことは、俺も知らない。ただ、そういう決まりだからな」
喉の奥に、小さな引っかかりが残った。
(儀式の前に、聖具をどこかに運んで清める? 誰が、どうやって、何のために)
「その清めって、どこでやるんですか」
「調律士様の詰所だよ。あそこ以外じゃ、清めはできないことになってる」
調律士オーレン。村を巡回し、儀式や健診を取り仕切る人物だった。表向きは、村にとって欠かせない専門職として、誰からも敬われている。
僕はそれ以上聞かず、男を見送った。だが、頭の中では、その言葉が引っかかったまま消えなかった。
(もし本当に何かを調べるための行為なら、人目のある昼間じゃなく、きっと夜にひっそりやるはずだ)
その夜、僕は誰にも言わずに、調律士の詰所の方へ向かった。
詰所は、村の外れにひっそりと建つ小さな建物だった。普段は人の出入りも少なく、明かりが灯っていることも稀だった。
今夜は、窓から淡い光が漏れている。
やっぱり思った通りだった。人目を避けて、夜にひっそりと。
僕は建物の裏手に回り、少し離れたところから中の様子を窺った。
窓の隙間から見えたのは、白い布に包まれていたはずの聖具が、台の上に置かれている光景だった。オーレンが、その聖具に向かって、何かの器具を当てているのが見える。
器具からは、ごく細い光の筋が伸びていた。まるで、聖具の内側を探るような、精密な動きだった。
清めの儀式というより、それは、村の道具を修理する職人の手つきに、ずっと近かった。
肩に、すっと力が入った。
(清めって、こういうことなのか。あれは、お祈りじゃない。何かを調べているようにしか見えない)
そのとき、オーレンが、ふと顔を上げた。
僕はとっさに、窓の陰に身を隠した。心臓が、大きく音を立てる。
しばらくして、そっと窓の方を覗くと、オーレンはもう作業に戻っていた。だが、その一瞬、彼の視線が、確かに窓の方角――僕が隠れていた場所に向いていたのを、僕は見た気がした。
気づかれただろうか。
僕はそれ以上、様子を窺うことができず、詰所を離れることにした。
詰所の裏手を離れ、暗い小道を数歩進んだところで、僕は思わず足を止めた。
後ろで、乾いた砂を踏むような、小さな音がした。
振り返る。だが、そこには誰もいなかった。詰所の窓からは、まだ淡い光が漏れているだけで、人影らしきものは見当たらない。
気のせいだ。そう思おうとしたが、うなじの辺りはまだひやりと冷たいままだった。
帰り道、これまで見てきた聖具の紋様のことを思い出した。ダレンの儀式のとき、あの聖具は、あまりに精巧すぎると感じた。裏山で見つけた石の溝も、同じ手触りをしていた。
もしあの聖具が、村の誰にも作れないような技術で作られているなら、それを「清める」という行為も、本当は別の意味を持っているのかもしれない。
夜道を歩きながら、僕はふと足を止めた。柵の外で見た荒野の景色が、また頭の中に浮かんでくる。あの景色と、今夜見たオーレンの器具の光と、井戸の底の金属質の輝き――どれも、この村の誰も持っていない何かの、断片であるような気がした。
村に戻る途中、リゼの家の前を通りかかった。窓に灯りが見えたので、思わず足を止める。
「こんな時間にどこ行ってたの」
戸口から顔を出したリゼが、僕の様子を見て、少し眉をひそめた。
「調律士様の詰所の方まで、ちょっと」
「調律士様の? なんで」
「聖具の清めって、どんなことをするのか、気になって」
リゼは少し不安そうな顔をした。
「ノア……そういうこと、あまり調べない方がいいと思う。調律士様は、村の中でも特別な人だから」
「特別だから、余計に気になるんだ」
僕がそう言うと、リゼはそれ以上何も言わず、小さく息をついた。
「わたしも、なんとなく分かるよ。調律士様が来ると、大人たちの様子が少し違うこと。みんな、いつもよりずっと言葉を選んでる気がする」
その一言に、僕は思わずリゼの顔を見た。彼女も、同じ違和感をずっと感じていたのだろうか。
「リゼも、そう思ってたの?」
「はっきりとは言えないけど……なんとなく。うまく言葉にできないだけで」
そう言って、リゼは少し困ったように笑った。それ以上は、彼女もまだ、言葉にする準備ができていないようだった。
家に帰ってからも、僕はあの詰所の窓から見た光景を、何度も思い返していた。
聖具の内側を探るような、あの精密な光。そして、僕を見た気がした、あの一瞬の視線。
もう一度、あの窓を思い出す。作業台の隅、聖具の陰になっていた場所に、一瞬だけ、見慣れない灯りが揺れていたのを、僕は確かに見た。あれは、蝋燭の炎ではなかった。もっと硬く、まっすぐな光だった。
あの灯りは、いったい何のためのものだったんだろう。
喉の奥に、小さな引っかかりが残った。
さっきの足音は本当に気のせいだったんだろうか。詰所を離れてからずっと、誰かに背中を見られているような感覚だけが消えずに残っていた。
距離感を書いた回でした。よろしければ、ブックマークで見守っていただけると嬉しいです。




