柵の向こう
少女の家族に向けられた感謝の温かさは、まだ胸の奥に残っていた。けれど、その温かさは村全体からの信頼には変わっていない。
倉庫の男が漏らした「境の外」という言葉が、頭から離れなかった。
見上げた空では、月が、記憶にある形とわずかに違う満ち方をしている気がした。気のせいだと自分に言い聞かせながら、僕は考え事に戻った。
その日の夜、僕はもう一度、あの男を訪ねた。夕食も終わった頃合いを見計らって、家の裏口をそっと叩く。
「昼間、何か言ってましたよね。境の外に出た方が良かったって」
男は僕の顔を見て、明らかに顔色を変えた。
「……そんなこと、言ったか」
「聞きました。何を知っているんですか」
男は長い間黙り込んでいたが、やがて、諦めたように小さな声で話し始めた。ランプの明かりが、彼の疲れた顔に深い影を作っていた。
「昔、俺の兄が……境の外に出たことがある。若い頃、村の暮らしに息が詰まって、柵を越えたんだ」
「それで、どうなったんですか」
「それで――それだけだ。それから誰も、兄の話をしない。俺自身も、聞くのが怖くて、聞かなかった」
「戻ってこなかったんですか」
「戻ってきたのかどうかも、知らない。ある日を境に、村の誰も兄の名前を口にしなくなった。まるで、最初からいなかったみたいに。家族の位牌も、いつの間にか作られていた。誰が用意したのかも、俺は知らない」
男の声には、長年抱えてきたらしい、重い諦めが滲んでいた。
「もう、この話はやめてくれ。俺は、これ以上のことは知らないし、知りたくもない」
そう言って、男は僕から目を逸らした。
僕は礼を言って、その場を離れた。
境の外に出た者は、二度と語られない。それは、単なる言い伝えじゃなく、村人たちが実際に経験してきた、静かな禁忌なんだと分かった。両親の死のことも、セルマが語らないあの空白も、同じ種類のものなのかもしれない――そんな考えが、頭の片隅をちらりと過った。
家に戻る途中、僕はリゼの家の前を通りかかった。窓に灯りが見えたので、思わず足を止める。
「ノア? こんな時間にどうしたの」
戸口から顔を出したリゼが、僕の表情を見て少し眉をひそめた。
「ちょっと考えたいことがあって。歩いてただけ」
「一緒に行く?」
「今日は、一人で大丈夫」
リゼは少し不安そうな顔をしたが、それ以上は聞かずに、僕の背中に短く声をかけた。
「無茶しないでね」
「うん」
僕はそれだけ答えて、また夜道を歩き始めた。彼女に心配をかけていることは分かっていた。それでも、今夜だけは、この直感を自分の足で確かめたかった。
夜道を歩きながら、これまで見てきた小さな違和感が、頭の中で次々と重なっていく。
井戸の底で見た、金属質の光。
村長フェインが隠していた、二つの帳簿。
儀式の聖具の、精巧すぎる作り。
魔物の、機械のように正確な動き。
そして、境の外に出た者が消える、この禁忌。
ひとつひとつは、別々の出来事のはずだった。けれど今、それらが同じひとつの答えに向かって、静かに手を伸ばしているような気がした。
(これは……境ノ村だけの話じゃない。もっと大きな、何かが)
まだ、確かな証拠はどこにもない。感覚だけが先に立って、理屈が追いついていない。それでも、この直感を胸の奥から追い出すことは、もうできなかった。
僕は、村の外れに向かって歩いていた。
月明かりの下、境の柵が、いつもよりずっと大きく、僕の前に立っていた。子供の頃から見慣れてきたはずのそれが、今夜はまるで初めて見るもののように感じられる。柵の木肌には、細かい亀裂の跡が幾筋も走っていて、その一つ一つが、長い年月を物語っていた。
「柵の外に出れば、災いが来る」
そう教えられて育った。誰も疑わず、誰も近づかない場所。
けれど、その言い伝えが、本当に星の恵みのためのものなのか、僕にはもう分からなくなっていた。
胸の奥で、棘がぴりっと疼いた。
これまでの、どの疑いよりも強く。
僕は柵の前に立ち、冷たい木の感触を確かめるように、ゆっくりと手を伸ばした。
指先が、柵の表面に触れる。
一瞬、体の奥で、あの熱がまた小さく灯った気がした。
柵の隙間から、外の景色がわずかに見えた。
そこには――村で見てきたどんな景色とも違う、見たことのない色の空と、地平線まで続く、乾いた荒野のような景色が広がっていた。風に混じって、これまで嗅いだことのない、乾いた砂と鉄のような匂いが漂ってくる。
思わず、僕は息を呑んだ。
「――これが、外の景色」
心臓が、大きく跳ねる。
これまで信じてきた「境ノ村がすべて」という当たり前が、たった一目で、静かに崩れていくのを感じた。
僕はしばらく、その景色から目を離せなかった。荒野の向こうに、うっすらと霞んで見える何か――丘なのか、それとも別の何かの輪郭なのか、遠すぎて判別がつかない。それでも、そこにも何かがある、という事実だけは、確かに感じ取れた。
境ノ村で生まれ育った僕にとって、この光景は、これまでの十四年間のどんな出来事よりも、大きな衝撃だった。ここが世界の全部だと、疑うことすら許されずに教えられてきた。その"全部"の外側に、こんなにも広い景色が続いているなんて。
柵から手を離しても、指先にはまだ、冷たい木の感触と、あの熱の残りが残っていた。境の柵は、これまで「災いを防ぐための壁」だと聞かされてきた。だが今この瞬間、僕にはそれが、村の中と外を分けるためだけの壁には見えなかった。もっと大きな何かから、村そのものを閉じ込めるための壁のようにも思えた。
柵の向こうに広がるその景色を見つめながら、僕は自分の中で、まだ言葉にならない問いが生まれていくのを感じていた。
これまで積み重ねてきた小さな違和感の一つ一つが、今、この柵の向こうにある何かへと、細い糸のように繋がっている。井戸の光も、帳簿の数字も、聖具の輝きも、獣の規則性も――すべてが、この景色の向こうにある、もっと大きな仕組みの一部なのかもしれない。この村だけの謎だと思っていたものが、実はもっと広い何かの、ほんの一角に過ぎないのかもしれない。
――この村は、いったい何の一部なんだろう。
僕はもう一度、柵の向こうへ目を凝らした。答えはまだ見えない。それでも、この一歩が、これから僕を運んでいく先の始まりだということだけは、確かに分かった。
胸の奥で、棘がぴりっと疼いた。今度はもう、疼くだけでは終わらせない。この違和感の続きを、僕はきっと、自分の足でたどっていくことになる。
ここでいったん区切りです。気になる方は、ブックマークで追いかけていただけると嬉しいです。




