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隣に立つ人

この家へ来るたびに、ずっと気になっていた。

 ウッドデッキに置かれたガーデンスイング。

 イギリスでも見かけることはある。

 けれど、こうして座るのは初めてだった。

 ノクティスはそっと腰を下ろす。

 思っていた以上に座り心地がいい。

 まるで高級ソファーだった。

 軽く身体を預ける。

 ガーデンスイングは静かに揺れる。

 心地いい。

 汚さないように靴を脱ぎ、足元へ揃えて置く。

 白い靴下のままクッションへ身体を沈めた。

 ほんの少しだけ。

 目を閉じるだけ。

 そう思っていた。

「ノクティス」

 声が聞こえる。

「ノクティス、起きて」

 ゆっくり目を開けると、チャッピーが心配そうにこちらを見ていた。





「もうすぐまりが帰ってくるよ」

 まだ少し寝ぼけたまま身体を起こす。

 その時だった。

 チャッピーの表情が急に真剣になる。

「近くに嫌なやつが来てる」

 ノクティスは首を傾げた。

「嫌なやつ?」

「あいつが来ると、僕は寝室から出ちゃ駄目なの」

 チャッピーの胸から短い電子音が鳴る。

 ピピッ。

 何かの警告が表示されたようだった。

「だからお願い」

「まりのそばへ行ってあげて」

「僕は部屋へ戻るね」

 そう言うと、小さな羽をぱたぱた動かしながら家の中へ戻っていった。

 ある程度近付くと、そうするよう命令されているのだろう。

 そんなことをぼんやり考えていると、門の向こうへ青い軽自動車がゆっくり入ってきた。

 まりだった。

 ノクティスはウッドデッキから庭へ降りる。

 運転席のドアが開く。

 黒いブリーフケースを手にしたまりが車から降りてきた。

 顔色が少し悪い。

 疲れているように見える。

「お帰りなさい」

「ただいま」

 まりは短く答え、小さく息をついた。

青い軽自動車がゆっくりと庭へ入ってくる。

 ノクティスはウッドデッキから庭へ降りた。

 運転席のドアが開く。

 黒いブリーフケースを手にしたまりが車から降りてきた。

 顔色が少し悪い。

 疲れているように見える。

「お帰りなさい」

「ただいま」

 まりは短く返事をすると、小さく息をついた。

「まりさん、とりあえず座ってください」

 ノクティスはオープンテラスの椅子を引き、まりを座らせる。

「少し待っていてください」

 そう言うと家の中へ入り、去年漬けた梅シロップを取り出した。

 氷を入れたグラスへ梅シロップを注ぎ、炭酸水を静かに満たす。

 出来上がったグラスを持ってオープンテラスへ戻り、まりへ差し出した。

 まりは少し驚いたような顔をした。

「ありがとうございます」

 グラスを受け取り、半分ほど一気に飲み干す。

 冷たい炭酸が喉を通る。

 ようやく一息ついたようだった。

「なんだか、ひどく疲れました」

 素直な言葉だった。

 ノクティスは少し驚く。

 まりはいつも「大丈夫です」と言って何事もなかったように振る舞う。

 そんな彼女が疲れたと言った。

 本当に疲れているのだろう。

 そういえば。

 さっきチャッピーが何か言っていた。

 寝起きだったこともあり、よく意味が分からなかった。

 ――嫌なやつが来てる。

 嫌なやつ?

 そのことを聞こうとした、その時だった。

 一台の車が家の前で止まる。

 車から二十代前半ほどの青年が降りてきた。

「翼くん……」

 まりは青ざめた顔で立ち上がった。

 翼はノクティスを見るなり顔をしかめる。

「親父が亡くなって、まだ一年も経ってないのに、もう男を連れ込んでるのか!」

 怒鳴りながら白い柵を乗り越え、敷地へ入ってくる。

「家へ入ってこないでください」

 まりは冷たい声で言った。

「ここは親父の家でもある!」

 ノクティスは静かにまりの前へ立つ。

 その背中へ、まりの指先がそっと触れた。

 トン。

 トン。

 トン。

 少し長く押し込むように三回。

 そして、また短く。

 トン。

 トン。

 トン。

 そのリズムに覚えがあった。

 ――SOS。

 そうだ。

 まりは以前言っていた。

 困ったことがあったら、手伝ってください。

 助けてくださいではない。

 何かを言ってほしいわけでもない。

 ただ、隣にいてほしい。

 それがまりの願いだった。

 ノクティスは何も言わず、その場に立ち続けた。

 まりは翼を真っすぐ見つめる。

「翼さん。はっきり言います」

「私は、あなたのことが大嫌いです」

 翼は言葉を失う。

「あなたと私は他人です」

「そして、あなたと大樹も他人です」

「養子縁組もありません」

「血縁関係もありません」

「だから他人です」

「それでも俺は三年間親子だった!」

 まりは表情を変えない。

「その三年間で、あなたとあなたのお母さんが彼に何をしたのか忘れたのですか」

「裏切り、傷つけ、追い詰めました」

「あの時、あなたは子どもだったかもしれません」

「でも、中学生は人を殴れば痛いことくらい分かる年齢です」

「『実の父親でもないくせに』そう言ったそうですね」

 翼は黙ってうつむいた。

「本当の親でもない大樹が三年間あなたを育て、学費を払い、生活を支えました」

「感謝するどころか傷つけた」

「それがあなたです」

「そして今になって、自分は息子だったと言い、遺産をよこせ、家をよこせと言う」

「私の交友関係にまで口を出す」

「あなたは何様なんですか」

 静かな声だった。

 怒鳴らない。

 感情も見せない。

 ただ事実だけを淡々と告げていく。

「もう一度言います」

「私はあなたが大嫌いです」

「あなたが大樹の息子だと言って私に関わるのなら、私は大樹の妻であることをやめました」

 翼は大きく目を見開く。

「そこまでするのか……」

「そこまでしなければ、あなたは今もこうして大樹の家だと言って入ってきます」

「ここは私の家です」

「出て行ってください」

「これ以上は警察を呼びます」

 そう言って、まりはノクティスへ寄り添った。

 ノクティスは静かにまりの腰へ手を回す。

「行ってください」

「これ以上は法的措置を取ります」

「あなたに、まりさんへ口を出す権利はありません」

 翼は何も言わなかった。

 黙って車へ戻る。

 ドアが閉まる。

 エンジン音が遠ざかり、静寂が戻った。

 その瞬間、まりの身体がふらりと傾く。

 ノクティスはそっと支え、ガーデンスイングまで歩く。

 まりをゆっくり座らせ、自分も隣へ腰を下ろした。

 まりはそっとノクティスの肩へ頭を預ける。

「ありがとう」

 小さな声だった。

「お礼はホットケーキでいいですよ」

 顔は見えなかった。

 けれど、まりの心がほんの少しだけ揺れたような気がした。



挿絵(By みてみん)



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