第3話、青い車で
朝の十時ごろ。
軽井沢の空はよく晴れていた。
庭の木々が風に揺れている。
そんな穏やかな朝。
門の方から、自転車を止める音が聞こえた。
「おはようございます」
門の前でノクティスが手を振っている。
今日はいつもより少し早い時間だった。
先週の約束を果たしに来たのだろう。
そして、まりは少し驚いた。
黒いエプロンを着けていた。
「気合が入ってますね」
ノクティスは少し照れたように笑う。
「約束でしたから」
どうやら本気らしい。
さっそく青い軽自動車の前へ向かう。
バケツ。
スポンジ。
タオル。
そして見慣れない道具まで取り出した。
ポンプ式の泡スプレーだった。
ノクティスは慣れた手つきで洗剤を入れ、水を注ぐ。
しゅこしゅこと空気を送り込む。
「慣れてるんですね」
まりが尋ねる。
ノクティスは少し困ったように笑った。
「実はこれ、自転車用なんです」
「自転車?」
「はい」
少し照れ臭そうに泡スプレーを持ち上げる。
「赤い自転車を洗う時に使ってます」
そういえば。
いつも乗ってくる赤い自転車は妙に綺麗だった。
泥も付いていない。
錆びもない。
きちんと手入れされている。
まりは少しだけ納得した。
大切にしているのだろう。
ノクティスは車の前で真剣な顔になる。
泡を作る。
スポンジを準備する。
なんだか少し楽しそうだった。
ホースを持って水をかけるたび、本人は真面目に洗車をしているのだろう。
それなのに、まりの目には「水だ!」とはしゃいでいる大型犬が、全力で遊んでいるようにしか映らなかった。
やっぱり、この人は食いしん坊のゴールデンレトリバーなんですね。
しばらく庭には、水の流れる音だけが響いていた。
青い軽自動車は、少しずつ輝きを取り戻していく。
「終わりました」
外から声がした。
まりはサンドイッチの皿とアイスコーヒーを持ってテラスへ向かった。
「お疲れさま」
「ありがとうございます」
ノクティスは席に座る。
そして。
テーブルを見る。
サンドイッチ。
アイスコーヒー。
それだけだった。
あからさまには顔に出さない。
出さないのだが。
ほんの少しだけ。
しょんぼりしていた。
耳が垂れているような気がする。
もちろん見えない。
たぶん。
まりは少しだけ口元を緩める。
「待ってて」
そう言ってキッチンへ戻った。
しばらくして戻ってくる。
両手には大きな皿。
三段に重ねられたホットケーキ。
バターがゆっくり溶けている。
甘い香りが風に乗る。
ノクティスが固まった。
そして。
満面の笑顔になった。
しょぼくれていたゴールデンレトリバーが、急に尻尾を振り始めたようだった。
「先にホットケーキから食べてもいいですよ」
まりが言う。
「足りなかったらサンドイッチをどうぞ」
「ありがとうございます」
本当に嬉しそうだった。
まりは自分の分のアイスミルクティーを持って席に着く。
テラスの風が気持ちいい。
目の前では、尻尾をぱたぱた振っているようなゴールデンレトリバーがホットケーキを見つめている。
「いただきます」
その言葉に、まりは少しだけ笑った。
そして今日もまた、不思議なお茶会が始まるのだった。
ノクティスはホットケーキへナイフを入れながら、ふと思い出したように庭の隅を見る。
洗ったばかりの青い軽自動車が陽の光を受けていた。
「あの車は買い出し用ですか?」
まりはアイスミルクティーをひと口飲む。
「通院や仕事用ですね」
「仕事をされているんですか?」
「在宅ですけど」
ノクティスは頷いた。
そして。
「どこか悪いんですか?」
まりは少し考える。
「頭と顔ですかね」
真顔だった。
ノクティスは一瞬固まる。
けれどすぐに気付く。
これは冗談だ。
「まりさんは美人ですよ」
「そうですか?」
まりは首を傾げた。
「あまり人の美醜がわからなくて」
「なるほど……」
ノクティスは少しだけ納得する。
だからなのか。
彼女は自分を見ても、他の女性たちのような反応をしない。
色めいた視線もない。
緊張もない。
むしろ。
子供を見るような目。
いや。
もしかすると。
ペットを見るような目ではないだろうか。
だから自分はここへの出入りを許されている。
そんな気がした。
ノクティスは話題を変えるように車を見る。
「どうして青を選ばれたんですか?」
まりも車へ視線を向ける。
「ある歌の歌詞に、君の青い車で海へ行こうってあるんです」
「へえ」
「その曲を聞いた時に、思わず自分の車で行けって思っちゃったんです」
ノクティスが思わず笑う。
「確かにそうですね」
「でも、車を選ぶ時になんとなくこの色を選んじゃったんです」
まりは首を傾げた。
「なんででしょうね?」
少し間を置いて、まりはノクティスの方を見る。
「そういえば、ノクティスの髪飾りの色と似てますね。」
ノクティスは少し驚いたように髪飾りへ手を添えた。
まりは髪飾りを見つめる。
「ラピスラズリですか?」
「はい。」
「とても大切なものなんです。」
「思い出の品ですか?」
ノクティスは少しだけ笑った。
「そんなところです。」
「そうですか。」
まりはそれ以上は聞かなかった。
しばらくして、ノクティスが何かに気付いたように口を開く。
「きっと、自分の車で海に行こうと思ったんじゃないですか?」
まりは少し考えて、小さく笑った。
「そうかもしれませんね。」




