餌付けされたゴールデンレトリバー
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今日は朝からお菓子を焼いていた。
特に理由はない。
ただ何となく食べたくなったのだ。
オーブンの中でゆっくり膨らんでいくチーズケーキを眺めながら、まりは小さく頷いた。
悪くない。
綺麗な焼き色だった。
冷蔵庫で冷やしている間に庭仕事を済ませてしまおう。
そう思い、青いチェックのエプロンの上から軍手をはめて外へ出る。
五月の風は気持ちがいい。
花壇の花も元気だった。
雑草も少し気になる。
そんなことを考えながら門へ向かった時だった。
「あ」
門の向こうで誰かが手を振っている。
金色の髪。
青い瞳。
妙に整った顔。
先週、ホットケーキの匂いに釣られて自転車ごと転んだ青年だった。
「こんにちは」
爽やかに笑う。
片手には紙袋。
少し持ち上げて見せた。
「先週のお礼です」
「そう」
まりは頷いた。
普通なら。
イケメンが家まで来た。
そう考えるのだろう。
けれどまりには違って見えた。
紙袋を咥えたゴールデンレトリバーが、
――拾ってきました。
そう言いながら尻尾を振っている。
そして。
――だからおやつください。
と言っているようにしか見えなかった。
たぶん気のせいだ。
きっと。
「せっかくですし、お茶でもしますか?」
そう言うと、ノクティスの視線が庭の隅へ向いた。
「あれ」
壊れた木柵だった。
冬の雪で傷んでしまった部分である。
「どうかしました?」
「前に来た時から少し気になっていたんです」
ノクティスは柵の前へしゃがみ込む。
手で軽く揺する。
「これ、修理させてもらえませんか?」
「え?」
「この辺、猪も出ますよね」
「出るわね」
「危ないです」
そう言うと、紙袋をテーブルへ置いた。
そして。
勝手に作業を始めた。
「ちょっと」
「大丈夫です」
「まだお願いしてない」
「任せてください」
返事が早い。
まりの返事を待つ気もないらしい。
工具箱を探し始める。
木材を確認する。
しゃがみ込んで状態を調べる。
とても楽しそうだった。
「……」
まりは少し考える。
そして結論を出した。
まあ、いいか。
本人がやりたいらしい。
止める理由もない。
「慣れてるの?」
ノクティスが顔を上げる。
「庭仕事ですか?」
「うん」
「好きなんです」
にこっと笑う。
本当に嬉しそうだった。
まりはその様子を見ながら思う。
変な人だ。
本当に。
そして先週と同じことを考えた。
この人。
また食べに来たんじゃないかしら。
その予感は、たぶん当たっていた。
修理は一時間も掛からなかった。
最後に木柵を軽く揺らしたノクティスが満足そうに頷く。
「これで大丈夫だと思います」
「ありがとう」
「いえ」
本当に嬉しそうだった。
褒められると嬉しいらしい。
まりには尻尾が見える気がした。
もちろん見えない。
たぶん。
「ケーキを焼いたんだけど」
その言葉にノクティスの顔が明るくなる。
「本当ですか?」
「うん」
テラスへ案内する。
席に着いたノクティスは一瞬だけ固まった。
本当にほんの少しだけ。
「何かしら」
「いえ?」
「そう」
まりは理解した。
チーズケーキを見ている。
ホットケーキではない。
全部理解した。
「ホットケーキじゃなくて残念?」
「違います」
即答だった。
「チーズケーキも大好きです」
嘘ではないらしい。
けれど、たぶんホットケーキの方が好きなのだろう。
「そう」
まりはそれ以上追及しなかった。
紅茶を淹れる。
ノクティスはチーズケーキをひと口食べた。
そして。
「おいしい……」
本当に幸せそうな顔になった。
分かりやすい。
本当に分かりやすい。
ぱくぱく。
もぐもぐ。
静かに食べる。
大きな口を開けるわけでもない。
騒ぐわけでもない。
ゆっくり。
丁寧に。
けれど本当に美味しそうに食べる。
まりは紅茶を飲みながら、その様子を眺めていた。
先週は大樹を思い出す日のはずだった。
けれど目の前の青年を見ているうちに、一日が終わってしまった。
今日も似たようなものだった。
チーズケーキを焼いた理由など、もうどうでもよくなっている。
不思議な人だ。
本当に。
「これもお店みたいですね」
「そう?」
「はい」
まりは少し考える。
「甘いものが好きなのね」
「好きです」
即答だった。
少し間を置いて。
「かなり好きです」
まりはミルクティーを飲む。
どうやら本当に好きらしい。
しばらく二人で静かにお茶を飲んだ。
五月の風が庭を抜けていく。
鳥の声が聞こえる。
花が揺れる。
「そういえば」
ノクティスが紅茶を置いた。
その視線はテラスの隅へ向いていた。
その視線の先には小さな丸い木のテーブルが置かれている。
飴色の木。
長い年月を感じさせる艶。
そして天板にはチェス盤が彫り込まれていた。
「あれはチェスですか?」
まりもそちらを見る。
「そう」
「珍しいですね」
「大樹が買ってきたの」
アンティークのチェステーブルだった。
駒は置かれていない。
盤面だけが静かにそこにある。
「駒は?」
「家の中」
ノクティスは少し嬉しそうに笑った。
どうやら好きらしい。
「一勝負しませんか?」
「チェスを?」
「はい」
その顔は少し自信ありげだった。
「マリが勝ったら」
少し考えてから続ける。
「来週、車を洗います」
「私の?」
「もちろんです」
まりは少し考えた。
悪くない。
ちょうど洗おうと思っていたところだった。
「僕が勝ったら――」
そこでまりが先に言う。
「好きなおやつを作ってあげるわ」
ノクティスが固まった。
「いいんですか?」
「ええ」
まりは頷く。
そして思う。
絶対ホットケーキだわ。
この人。
百パーセントそうだわ。
ノクティスの目が少し輝く。
隠せていない。
「では」
ノクティスは少し笑った。
「白をいただいても?」
「どうぞ」
「ありがとうございます」
まりは家の中へ駒を取りに向かった。
木の箱を開ける。
白と黒の駒。
大樹が一緒に買ってきたものだった。
テーブルへ戻る。
ノクティスはもう席に座って待っていた。
白をノクティス。
黒をまり。
一つずつ駒が並んでいく。
ノクティスは自信があるのだろう。
表情にも余裕があった。
まりは向かいの青年を見る。
金色の髪。
青い瞳。
風に揺れる青い石の髪飾り。
そして少し得意そうな顔。
少しだけ思う。
かわいそうに。
「……参りました」
ノクティスが小さく息を吐いた。
盤面を見つめたまましばらく動かない。
それから苦笑した。
「完敗です」
「そう」
まりは紅茶を飲む。
思ったより早かった。
ノクティスはかなり強い。
けれど。
まりの方が強かった。
「強いんですね」
「まあ」
まりは頷く。
ノクティスは椅子へ背中を預けた。
そして、がっくりとうなだれる。
少ししょんぼりしていた。
耳が垂れているように見える。
もちろん見えない。
たぶん。
「約束ですから」
ノクティスが顔を上げる。
「来週、車を洗います」
「お願いしようかしら」
「はい」
少し元気が戻った。
どうやら働くことは嫌いではないらしい。
まりは思い出したように言う。
「好きなおやつは?」
ノクティスは少し考えた。
少しだけ遠慮する。
けれど。
「……ホットケーキです」
やっぱり。
まりはミルクティーを飲む。
予想通りだった。
「考えておくわ」
ノクティスは少し嬉しそうに笑った。
駒を片付けながら言う。
「来週もお邪魔します」
「洗車だから?」
「洗車だからです」
少し間を置く。
「たぶん」
まりは少しだけ口元を緩めた。
庭の木陰。
茶トラが目を開ける。
隣では黒猫が丸くなっていた。
がっくりとうなだれているノクティスを見る。
「あれはまた来るね」
「来るね」
二匹はしばらくテラスを見つめていた。
五月の風が庭を抜ける。
金色の髪が揺れる。
青い石も揺れる。
そして。
来週またここへ来る理由が一つ増えた。
それはたぶん。
車の洗車のためだけではなかった。




