タイトル未定2026/07/01 21:25
白い世界で目が覚めた。
ゆっくりと瞼を開く。
どこまでも続く白。
空も。
地面も。
境界すらわからない。
静かだ。
本当に静かだ。
まりはゆっくりと体を起こした。
「あれ……?」
思ったよりも楽に立ち上がれた。
一歩踏み出す。
軽い。
肩も。
腰も。
膝も。
どこも痛くない。
思わず腕を回し、小さく息をついた。
「終わったのですね……」
最後の記憶は、やっぱりあの人だった。
珍しくノクティスがお願いをしてきた。
『まりさん。ホットケーキが食べたいです。』
その一言が少し嬉しくて。
粉を混ぜ。
生地を休ませ。
一枚ずつ丁寧に焼き上げた。
今日は今までで一番良い出来だった。
焼き色も。
厚みも。
香りも。
全部、自信があった。
ホットケーキを二人分並べ。
いつものアイスミルクティーも用意した。
そこまでは覚えている。
でも、その先の記憶がない。
「まさか、この状況で食べていませんよね。」
頬に手を添え、小さく首をかしげる。
「さすがに私でも、この状況では食べませんよ。」
「まりさん。」
後ろから聞こえた声に、ゆっくり振り返る。
優しくて。
穏やかで。
少し甘えん坊な、大好きな声。
そこには、神官服のような白い衣装をまとった青年が立っていた。
金色の髪。
青い瞳。
出会った頃と変わらない姿。
まりは少し目を細めた。
「神様のコスプレですか?」
青年は困ったように笑う。
「この状況で、それを言えるのはまりさんだけですね。」
「私は私ですから。」
「その通りです。」
青年は静かに頷いた。
「そして私は、まりさんの言うところの神様です。」
「そうですね。」
「ただし、この世界ではありません。別の世界の神様です。」
まりは少しだけ考える。
「……一つ、お聞きしてもいいですか?」
「もちろんです。」
「私は神様と結婚して、神様との子供を産んだのですか?」
ノクティスは小さく首を横に振った。
「いいえ。」
「地球にいた僕は、人間として存在していました。」
「だから、子供たちも人間です。」
まりはほっと胸をなで下ろした。
「それなら安心しました。」
「少し気になったものですから。」
ノクティスは優しく微笑む。
「まりさんらしい質問ですね。」
まりも小さく微笑み返した。
「ホットケーキ、食べられなかったのですね。」
その一言に、ノクティスは少し寂しそうな顔をする。
「今日は今までで一番良い出来だったのですよ。」
ノクティスは何も言わず、右手を静かにかざした。
次の瞬間。
二人の前に木製のテーブルと椅子が現れる。
その上には、焼きたての香りが漂うホットケーキ。
そして、大きな氷が入ったアイスミルクティー。
見慣れた、二人分の朝食だった。
「本当に神様みたいですね。」
「神様ですから。」
まりは小さく頷く。
「便利な言葉ですね。」
ノクティスは少し照れくさそうに笑い、椅子を引いた。
「どうぞ。」
「ありがとうございます。」
まりは静かに腰を下ろす。
向かいにノクティスも座った。
目の前のホットケーキを見つめる。
「最高傑作ですよ。」
少しだけ誇らしそうに言った。
「食べてください。」
「いただきます。」
ナイフとフォークを手に取り、一口運ぶ。
「……おいしいです。」
ぽたり。
涙がホットケーキの上に落ちた。
ぽたり。
もう一粒、涙がホットケーキに落ちた。
「あまり泣くと、しょっぱくなりますよ。」
まりが静かに言う。
「それは困りますね。」
ノクティスは涙を拭いながら、小さく笑った。
二人は何も言わず、最後までホットケーキを食べ終えた。
アイスミルクティーを一口飲み、まりは満足そうに微笑む。
「おいしかったです。」
少し間を置いて、もう一度。
「今まで食べた中で、一番おいしかったです。」
その言葉を聞いた瞬間だった。
ノクティスは両手で顔を覆い、声を上げて泣き始めた。
「助けられなくて……。」
「ごめんなさい……。」
肩を震わせながら、何度も謝る。
まりは静かにその姿を見つめていた。
(この人は、何を謝っているのでしょう。)
そう思った次の瞬間。
ノクティスは椅子から立ち上がり、まりの前まで歩いてくる。
そして、その場に膝をついた。
「まりさん……。」
まりの腰へ、そっと腕を回す。
子どものように、すがりついて離れない。
「お願いします。」
「僕の世界へ来てください。」
「まりさんがいない世界は、もう嫌なんです。」
ぽろぽろと涙がこぼれ続ける。
まりは困ったように小さく笑い、金色の髪を優しく撫でた。
(やっぱり、あの子に似ていますね。)
幼い頃のるりが、どうしても譲れないことがあると、こんなふうに抱きついてきたことを思い出す。
自然と手が動いていた。
「大丈夫ですよ。」
頭をゆっくり撫でる。
背中を優しくさする。
神様をあやすことになるとは思わなかった。
「まりさん。」
涙声のまま、ノクティスが見上げる。
「私の世界に転生しませんか?」
「いいえ、結構です。」
「返事が早い!」
「即答です。」
「もう少し考えてください。」
「もう充分幸せでした。」
まりは穏やかに微笑んだ。
「五十七年、一緒にいました。」
「子供にも恵まれました。」
「孫の成人式まで見届けました。」
「人生に悔いはありません。」
「ゆっくり休ませていただきたいです。」
ノクティスはしばらく黙っていた。
やがて、小さく息をつく。
どうやら。
泣き落としは通用しないと悟ったらしい。




