本気の勝負?
チェス勝負
病院は静かだった。
個室だから余計にそう感じるのかもしれない。
まりは窓際の椅子に座り、本を読んでいた。
ページをめくる音だけが小さく響く。
その静寂を破るように、規則正しいノックが聞こえた。
三回。
少し間を置いて一回。
最近はそれだけで誰かわかる。
「どうぞ」
扉が開く。
「こんにちは」
やはりノクティスだった。
今日も来た。
昨日も来た。
一昨日も来た。
その前も来た。
たぶん毎日来ている。
まりは入院日数を数えてみた。
数えるまでもなかった。
欠席は一日もない。
「大学は」
「行きました」
「そうですか」
「信用してませんね」
「少しだけ」
「ひどい」
そう言いながら、ノクティスは笑っていた。
椅子を引き寄せ、いつもの場所へ座る。
完全に自分の席だと思っている。
病室の備品なのだが。
まりは本へ視線を戻した。
「今日は何をしていたんですか」
「本を読んでいました」
「そうじゃなくて」
「今も読んでいます」
「知ってます」
今日も元気そうだった。
犬なら尻尾が見える気がする。
大型犬という表現は意外と正確かもしれない。
そんなことを考えていると、紙袋が机の上に置かれた。
「なんですか」
「お土産です」
中を見る。
外国産のブルーベリーだった。
「まだ早いでしょう」
「どうしても見つけたので」
「そうですか」
「退院したら使いましょう」
まりは小さく頷いた。
断る理由もない。
どうせ食べるならホットケーキに乗せればいい。
そう考えていると、ノクティスが満足そうに笑った。
単純である。
本当に犬みたいだ。
しばらく沈黙が続く。
まりは本を読む。
ノクティスは窓の外を眺めている。
別に会話がなくても困らない。
それなのに彼は毎日来る。
不思議だった。
まりだったら来ない。
元気ならなおさら来ない。
入院患者は暇だから気を遣っているのだろうか。
そうでもない気がする。
もっと単純な理由のような気がした。
「ノクティス」
「はい」
「なぜ毎日来るんですか」
聞いてみる。
彼は少しだけ考えた。
そして首を傾げる。
「来たら駄目ですか」
「そういう意味ではありません」
「そうですね……」
珍しく答えに時間がかかっていた。
まりは本を閉じる。
しばらくして、ノクティスは困ったように笑った。
「来たいから、でしょうか」
あまりにも単純な答えだった。
まりは数秒考える。
なるほど。
確かにそれ以上の理由は必要ないのかもしれない。
「そうですか」
「そうです」
それで話は終わった。
ノクティスは満足そうだった。
まりも納得した。
犬は散歩に行きたいから行く。
庭で遊びたいから遊ぶ。
会いに来たいから会いに来る。
たぶん同じなのだろう。
窓の外では雲の切れ間から少しだけ陽が差していた。
もうすぐ退院できる。
家に帰ったら梅の木を見よう。
ブルーベリーも確認しなければならない。
今年は実りが良さそうだった。
ゆすらうめもそろそろ色づく頃だろう。
その話をすると、ノクティスは興味津々で聞いていた。
どうせ収穫の日には朝から押しかけてくるに違いない。
そして籠いっぱいに実を摘みながら、
「ホットケーキにしましょう」
と言うのだ。
ほぼ確実だった。
まりはほんの少しだけ口元を緩めた。
病室は相変わらず静かだった。
けれど、その静けさは以前ほど空っぽには感じなかった。
帰ろうとした時だった。
「ノクティス」
扉の前で振り返る。
まりは本を閉じていた。
「明日も来る気なら」
「はい」
「お使いを頼んでもいいかしら?」
珍しいことだった。
「もちろんです」
「チェスボードを買ってきてくれませんか?」
ノクティスは少し目を丸くする。
「チェスですか?」
「病院は暇なので」
「わかりました」
その日はそれで終わった。
けれど。
ノクティスの頭の中はチェスボードでいっぱいだった。
ご主人様がボールを買ってくれる。
そんな大型犬のような気分だった。
買いに行くのは自分なのだが。
それが何を意味するのかはわかっている。
翌日。
本当は講義があった。
興味のある内容でもなかった。
少しだけ悩んで。
結局ノクティスはチェス専門店へ向かった。
初めておもちゃを買ってもらった子供のように。
大事そうに箱を抱えて病院へ向かう。
三回。
少し間を置いて一回。
最近ではすっかり決まったノック。
「どうぞ」
病室へ入る。
「こんにちは」
「こんにちは」
袋を見た瞬間。
まりの視線が少し動く。
「買ってきました」
「早かったですね」
「開けてもいいですか?」
「どうぞ」
ノクティスは袋を開く。
箱を出す。
包装を外す。
その手はどこか落ち着かない。
まるで尻尾を振っているようだった。
ゴールデンレトリバーが新しいボールを渡された時のように。
まりは少しだけ口元を緩める。
この辺はイギリス人なのだろうか。
日本人なら袋を丁寧に畳む。
包装紙も残す。
けれどノクティスは違う。
イギリス人というより。
待ちきれない子供だった。
駒を並べる。
白はノクティス。
黒はまり。
その時だった。
まりは静かに自分のクイーンを盤から取り上げた。
ノクティスが目を瞬かせる。
「まりさん?」
「手加減はいりません」
少しだけ。
プライドを傷つけられたような顔になる。
まりは静かに言う。
「でも、一度も勝ったことがないですよね」
言葉に詰まる。
その通りだった。
一度も勝っていない。
まりはクイーンを机へ置く。
「今回は本気の賭けです」
病室の空気が少し変わった。
「負けたら、一つだけ私の願いを叶えてくれませんか?」
ノクティスは驚く。
まりがこんな真剣な顔をするのは珍しい。
「その代わり」
まりは続ける。
「ノクティスが勝ったら、お願いを一つ叶えてあげます」
「ホットケーキはいつでも焼いてあげるので」
「それ以外で、あなたが本当に望むものを」
「私にできる範囲ですが」
静かな声だった。
「どうしますか?」
ノクティスも真剣に盤を見る。
そんな賭けをしなくても。
もう自分はまりに逆らえない。
まりもそれを知っているような気がした。
それでも。
彼女はきちんと筋を通す。
負け続けているとはいえ。
クイーンを外されたのなら。
今度こそ勝てるかもしれない。
いや。
勝つまで頑張りたい。
ノクティスは白のポーンへ手を伸ばした。
「受けます」
まりは小さく頷く。
そして。
病室の静かな空気の中。
二人の勝負の火蓋が切って落とされた。
完敗だった。
本気で戦った。
一度だって勝てたことはない。
それでも毎回本気だった。
そして今回も。
本気だった。
クイーンを外してもらった。
それでも勝てなかった。
病室のテーブルの上。
チェス盤を前にして、ノクティスは顔を伏せる。
まるで叱られたゴールデンレトリバーだった。
帰ったら大きなホットケーキを焼いてあげよう。
そんなことを思わせるくらい、わかりやすく落ち込んでいる。
まりは少しだけ口元を緩めた。
ノクティスは深く息を吐く。
気持ちを落ち着かせる。
本当は。
勝つつもりだった。
そして格好よく言うつもりだった。
『私の願いは、君の願いを叶えることです』
そんなことを考えていた。
けれど。
負けた。
完全に。
ノクティスは顔を上げる。
「まりさん」
「はい」
「まりさんの願いは何ですか?」
まりは少しだけ首を傾げる。
まるで簡単な質問をされたように。
そして。
「私と結婚してくれませんか?」
病室が静かになった。
ノクティスは数秒動かなかった。
言葉が出ない。
頭の中が真っ白だった。
「はい」
思わず返事をする。
まりが確認するように聞く。
「よかった。いいんですね?」
疑問形の「はい」だった。
ノクティスはようやく我に返る。
「だめなのですか?」
まりが聞く。
「いいえ」
ノクティスは小さく首を振った。
「お願いします」
まりは安心したように息をつく。
「よかった」
そう言って。
ベッドサイドの引き出しから一枚の書類を取り出した。
婚姻届だった。
そこにはすでにまりの名前が書かれている。
保証人の欄には。
現在の法律事務所の所長。
そして。
チャッピーの開発責任者の名前。
後は。
ノクティスが書くだけだった。
「後はノクティスだけです」
そう言って。
まりはにっこり笑った。
それは。
ノクティスが初めて見る。
本当の笑顔だった。




