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責任の取り方


 大学の講義室の一つが借りられていた。

 平日の夕方。

 学生の姿も少なくなった校舎の中で、その教室だけが妙に重い空気に包まれている。

 前方の机には三人。

 ノクティス。

 そして早見と、パラリーガルの佐藤という女性。彼女は人数分の書類を静かに机へ並べていた。

 早見は、大樹の一年後輩であり、現在はまりから事務所を預かる所長だった。

 向かい側には五人。

 三人の女子学生。

 その友人の男子学生二人。

 さらに後方には、それぞれの親たちが座っている。

 人数が多く、普通の会議室では足りなかった。

 最初に口を開いたのは早見だった。

「本日は、お子さん方が起こした件についてお話をします」

「発言は順番にお願いします」

「私語は控えてください」

「なお、本日の内容は記録しております」

「今後の手続きに影響する場合がありますので、ご了承ください」

 しかし、その言葉が終わる前に父親の一人が口を開いた。

「たかが子供のいたずらじゃありませんか」

「大学に行けなくなるなんて、かわいそうでしょう」

 別の親も頷く。

「将来があるんですよ」

「損害賠償なんて、やりすぎです」

「若いんですから」

 女子学生たちも涙を浮かべていた。

「そんなつもりじゃ……」

「先輩を心配して……」

 男子学生たちも俯いたままだ。

 ノクティスは黙っていた。

 最初は何も話すな。

 そう早見に言われている。

 自分に任せろ。

 その言葉に従っていた。

 拳を握る。

 怒りを押さえる。

 まりは病院にいる。

 その原因が目の前にいる。

 それなのに。

 誰一人としてまりのことを話さない。

 自分たちの将来。

 自分たちの人生。

 その話ばかりだった。

 隣から小さな声が聞こえた。

「被害者の気持ちを知ることも、法律を目指す者には大事だよ」

 早見だった。

 ノクティスは思う。

 この人は、どうやら自分を生徒か何かだと思っているらしい。

 やがて。

 一通り言いたいことを言い終えたのだろう。

 教室が静かになる。

 早見は眼鏡を外し、机の上へ置いた。

「少し落ち着かれましたか」

 その一言で空気が変わった。

「では、皆さんが何をしたのか説明します」

 ファイルが配られる。

 写真。

 記録。

 音声。

 内容証明。

 防犯映像。

 親たちがページをめくる。

 そして。

 言葉を失った。

「あなた方は、心臓疾患を抱えた一人暮らしの女性に対し、継続的な嫌がらせを行いました」

「一度や二度ではありません」

「複数回です」

「そのすべてが記録されています」

 教室が静まり返る。

「被害者は弁護士です」

「重い心疾患を抱えています」

「強い精神的負荷によって生命に危険が生じることは、内容証明にも記載されています」

 親たちの顔色が変わっていく。

「そして内容証明を受け取った後」

「男性二名を伴い、五人で自宅を訪れた」

「退去要求を三回受けた後も敷地内へ侵入した」

「結果として、被害者は救急搬送されています」

 誰も反論しない。

 できない。

 すべて記録に残っているからだ。

 早見は続ける。

「なぜですか」

 沈黙。

「彼女は森の家で静かに暮らしていただけです」

「なぜ嫌がらせをしたのですか」

 しばらくして。

 一人の女子学生が小さく答えた。

「だって……」

「先輩を取ったから……」

 別の女子学生も続く。

「ノクティス先輩に色目を使ったから……」

「たぶらかしたから……」

 親たちが娘を見る。

 呆然としていた。

 本気だったのだ。

 本当にそう思っていた。

 ノクティスはゆっくり目を閉じる。

 まりは何もしていない。

 ただ。

 静かに生きていただけだった。

 早見は感情を見せない。

 声も変わらない。

「そうですか」

「それが理由ですか」

 その一言だけだった。

 誰も息をする音さえ立てなかった。

 早見は大樹の後輩だった。

 司法試験に合格したのが一年遅かった。

 その後、知人の紹介で若いまりが事務所へ入った。

 三人で働いた時間は長い。

 大樹が傷つき、疲れ果てていた時期を知っている。

 その隣にいたのは、まりだった。

 少なくとも、早見にはそう見えていた。

 そして大樹が亡くなった後。

 まりは事務所を早見へ託した。

『私は裏で手伝うから』

『お前が頑張れ』

 そう言って、まりは大樹の似ていない口真似をした。

 静かな暮らしを選んだ。

 だが。

 それを口にすることはない。

 ここは感情をぶつける場所ではない。

 もし怒りを表へ出せば。

 弁護士として失格だ。

 だから。

 怒りは胸の奥へしまう。

 その代わり。

 隣の若者を見る。

 ノクティス。

 まだ若い。

 まだ未熟だ。

 だが。

 まりを守りたいと思っている。

 責任を感じている。

 ならば。

 立たせる。

 守らせる。

 この若造を一人前にする。

 そして。

 二度とまりを傷つける者を近づけさせない。

 それが今の自分の役目なのだろう。

責任の取り方 2(後半・前半)

 早見は静かにノクティスを見た。

「ノクティス」

 教室の視線が集まる。

 ノクティスはゆっくり立ち上がった。

 教室を見渡す。

 誰も目を合わせようとはしなかった。

 小さく息を吸う。

「一つだけ訂正します」

 静かな声だった。

「あなたたちは、最初から大きな勘違いをしています」

「私は成人した一人の男性です」

「あなたたちは大学の後輩でしかありません」

「別に親しくしているわけでもありません」

「友人でもありません」

「大学で話しかけられれば答える」

「その程度の関係です」

 女子学生たちは息をのんだ。

 自分たちは仲の良い後輩だと思っていたのだろう。

 ノクティスは静かに続ける。

「それなのに、なぜ僕の意思を無視したのですか」

「なぜ、彼女が僕をたぶらかしたと決めつけたのですか」

「あなたたちには何の関係もないことです」

「僕が誰と会おうと」

「誰と友人になろうと」

「誰を好きになろうと」

「それは僕自身が決めることです」

 少し間を置く。

「彼女は僕の友人です」

「そして」

「僕の片想いの相手です」

 教室の空気が止まる。

「彼女は僕を利用したことは一度もありません」

「何かを強要したこともありません」

「全部、僕自身の意思です」

「それなのに、あなたたちは彼女を攻撃した」

「結果として、彼女は救急搬送されました」

 ノクティスは教室をゆっくり見渡した。

「あなたたちは彼女を悪い女性だと言いました」

「ですが」

「その根拠は何ですか」

 誰も答えない。

「ありません」

「思い込みです」

「決めつけです」

「その思い込みだけで」

「何も関係のない彼女を傷つけました」

 静かな声のまま続ける。

「そして今」

「僕は怒っています」

「許せません」

「彼女を傷つけたこと」

「病院へ送ったこと」

「何の落ち度もない彼女を悪者にしたこと」

「全部、許せません」

 親たちへ視線を向ける。

「少し考えてください」

「もし」

「皆さんの大切な人が」

「根拠のない思い込みだけで傷つけられ」

「その結果、命を落としかけたら」

「皆さんは許せますか」

 誰も答えなかった。

「僕は許せません」

 教室には重い沈黙だけが残っていた。

 早見は静かにその姿を見ていた。

 まだ若い。

 まだ未熟だ。

 だが。

 ようやく立った。

 ようやく前へ出た。

 まりが守ったものを。

 今度はこの若者が守る。

 早見は小さくうなずいた。

「以上です」

 ノクティスが静かに一礼すると、教室を後にした。

 扉が閉まる。

 しばらく誰も口を開かなかった。

 早見はゆっくりと立ち上がる。

「さて」

「これで、皆さんにも楠木まりさんがどんな人物なのか、そして皆さんが誰を傷つけたのかは理解していただけたと思います」

 誰も答えない。

「ここからは」

「うちの法律事務所と、皆さんのお話です」

 加害者たちは顔を見合わせる。

 意味が分からない。

 そんな表情だった。

 早見は机の上の書類へ視線を向けた。

「なぜ、という顔をされていますね」

「では、表紙をご覧ください」

 全員が視線を落とす。

 そこには大きく記されていた。

 楠木大樹法律事務所

 何人かの保護者の顔色が変わる。

 知っていたのだ。

 早見は静かに続けた。

「ご存じの方もいらっしゃるようですね」

「この事務所は、楠木大樹が立ち上げました」

「そして妻である楠木まりさんと共に育ててきた法律事務所です」

「現在は私が所長を務めています」

「ですが」

「事務所の中核を担っているのは、今もまりさんです」

「佐藤君」

「書類を」

 佐藤が静かに立ち上がり、人数分の書類を配っていく。

 一枚。

 また一枚。

 最後の一枚が配られた。

 全員が金額を見た瞬間、顔色が変わった。

「こんな金額……払えません」

「法外だ!」

 早見は表情を変えない。

「いいえ」

「かなり抑えています」

 教室が静まり返る。

「まりさんは、多くの顧問企業を担当しています」

「今回の件で業務が停止したことによる損害」

「事務所が受けた損害」

「それらを考えれば、この請求額は最低限です」

 誰も反論できない。

 早見は続けた。

「皆さんは」

「この事務所が、なぜここまで大きくなったと思いますか」

 静かな声だった。

「応用の天才だった楠木大樹」

「そして」

「記憶の天才、楠木まり」

「二人が築き上げてきたからです」

 一拍置く。

「皆さんが傷つけたのは、一人の女性だけではありません」

「楠木大樹法律事務所そのものです」

「だから」

「皆さんには、その責任を負っていただきます」

 そう言って、早見は静かに眼鏡を掛け直した。

「なお」

「刑事事件については、私どもの判断ではありません」

「今後は、警察および検察の判断になります」

 その一言で、教室の空気が凍りついた。

 最後の一人が教室を出て行く。

 扉が静かに閉まった。

 佐藤は大きく息を吐く。

「まだ大学や慰謝料の話だと思っていたんですね……」

 早見は静かに眼鏡を掛け直した。

「これからだよ」

 それだけだった。

 佐藤はそれ以上聞かなかった。

 長く一緒に仕事をしてきた。

 だから知っている。

 普段の早見は穏やかだ。

 感情で怒鳴ることもない。

 だが、一度仕事となれば一切妥協しない。

 大樹が守り続けたものを。

 今度は、この人が守る。

 決して大樹やまりのような天才ではない。

 けれど。

 二人が安心して事務所を任せた男だった。

 静かで、冷静で。

 誰よりも仕事のできる男。

 それが、早見という弁護士だった。



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