怒らせてはいけない人
動画には、大学から帰るノクティスの姿が映っていた。
その少し後。
見覚えのある三人組の女子学生が画面に現れる。
家の前をうろつき、笑いながら何かを話していた。
その時だった。
庭の植え込みから、茶色い毛玉が姿を現す。
いつもチャッピーをからかいながら庭へ遊びに来る、大きなボス猫だった。
堂々と歩く姿は、この庭の主のようでもあった。
一人の女子学生が猫を見つける。
「うわ、汚い猫。」
「向こう行け。」
そう言うと、小石を拾い上げ、軽い気持ちで投げつけた。
追い払うつもりだったのだろう。
だが、不運にも石は茶色い毛玉に当たってしまった。
驚いた茶色い毛玉は道路へ飛び出す。
その瞬間だった。
ブレーキの音。
鈍い衝撃音。
一台の車が急停止した。
ノクティスは思わず目を閉じる。
動画の中では、車のドアが勢いよく開いた。
老夫婦が慌てて車から降りてくる。
茶色い毛玉をはねてしまったのは、その老夫婦だった。
夫は急いで上着を脱ぎ、震える手で茶色い毛玉を包もうとする。
しかし、茶色い毛玉は逃げようとした。
もう逃げられるほどの力は残っていない。
それでも必死に体を引きずり、赤い屋根の家へ向かおうとしていた。
そして力尽きるように動きを止めると、赤い屋根の家を見つめ、小さく鳴いたように見えた。
夫は静かに茶色い毛玉を上着で包み込む。
老夫婦は大切そうに抱き上げると、そのまま車へ戻り走り去っていった。
ノクティスは両手で顔を覆った。
まりは言っていた。
「死んだものに執着はしません。」
「死んだら、もう苦しくありません。痛くもありませんから。」
その言葉を思い出す。
では、生きていたら。
助けられる命だったら。
ノクティスはゆっくりと目を開いた。
「……そういうことか。」
彼女は猫を助けようとしたわけではない。
近所の人を守ろうとしたわけでもない。
きっと、まりならこう言う。
「猫のためでもありません。」
「近所の人のためでもありません。」
「私の大切なものが傷つくのを見るのが嫌なんです。」
「だから私は、自分のためにやっています。」
ノクティスは静かに内容証明へ視線を落とした。
そうだ。
これは誰かを救うための文章ではない。
まり自身が、自分の大切なものを守るために引いた境界線だった。
その結果として、誰かが守られるだけなのだ。
内容証明には、まりが心臓を患っていること。
強い精神的苦痛は命に関わる危険があること。
そして、嫌がらせが続くなら法的措置、大学への報告、損害賠償および慰謝料を請求することが、冷静な文章で記されていた。
請求額も決して小さくはない。
ぼんやりと書類を見つめていると、外から鳥のさえずりが聞こえてきた。
朝だった。
空は青く晴れ渡っている。
それなのに。
ノクティスの心だけが、土砂降りの雨の中に取り残されているようだった。




