見過ごした前兆
今日は朝からまりの家へ行く約束だった。
先日の翼の件以来、まりは少し疲れているように見える。
本人は何も言わない。
いつも通りだと言うだろう。
けれど、あの人の「大丈夫」はあまり信用できない。
今日はまりさんの好きな紅茶を買っていこう。
少し良い蜂蜜も。
食べやすい果物もあった方がいいかもしれない。
人のために品物を選ぶのが、こんなに楽しいものだとは思わなかった。
果物売り場から紅茶売り場へ向かう。
その途中だった。
「ノクティス先輩」
振り返ると、大学の後輩の女の子たちが三人立っていた。
「今日一人ですか?」
「珍しいですね」
「買い物ですか?」
ノクティスは曖昧に笑う。
「これから用事があるから」
「少しくらいいいじゃないですか」
一人が腕へ軽く触れる。
「お茶でもどうですか?」
「今日は無理です」
「彼女でも待たせてるんですか?」
冗談めいた声。
けれど、あまり好きではない。
誰が誰を好きだとか。
誰が付き合っているとか。
そういう話題は苦手だった。
「急いでいるから」
ノクティスは軽く頭を下げる。
「また大学で」
そう言ってその場を離れた。
背中に何か言葉が聞こえた気もしたが、振り返らない。
少し息をつく。
紅茶を選ぶ。
蜂蜜をかごへ入れる。
果物も選ぶ。
まりならどれが食べやすいだろう。
そんなことを考える。
買い物を終え、レジを済ませる。
袋を受け取り、出口へ向かおうとして。
ふと視線を上げた。
通路の向こう。
商品棚を見上げる小柄な後ろ姿。
カートへ手を添える仕草。
少し考え込むように立ち止まる癖。
ノクティスは思わず足を止めた。
その後ろ姿は。
間違いなく、まりだった。
「まりさん?」
まりが振り向く。
「ティス」
カートの中には米や醤油。
調味料や日用品。
思ったより重量のある買い物が並んでいる。
米。
瓶の調味料。
これをまりが一人で運ぶつもりだったのだろうか。
「まりさんも買い物ですか」
「ティスも買い物ですか?」
「珍しいですね」
「宅配じゃないんですか?」
まりは小さくうなずく。
「今は止めているんです」
「そうだったんですね」
ノクティスはカートへ手を伸ばした。
「荷物を持ちますね」
まりが少し戸惑ったように見る。
「大丈夫ですよ?」
「私が持ちたいんです」
ノクティスは少しだけ笑う。
「お駄賃はホットケーキにしてください」
「生クリームが乗っているとうれしいです」
まりは少しだけ呆れたような顔をした。
そして。
小さくうなずく。
「……わかりました」
二人でレジへ向かう。
会計を済ませる。
袋へ荷物を詰める。
ノクティスは自然に重いものを持った。
米。
牛乳。
調味料。
まりは軽い袋を持つ。
駐車場へ出る。
夏の空気は少し湿っていた。
ノクティスはトランクを開ける。
荷物を積み込む。
その時だった。
ノクティスの背後。
三人の女の子たちが少し離れた場所に立っていた。
ティスからは見えない。
けれど、まりからはよく見える。
こちらを見ている。
なんとなく嫌な感じだった。
好きなら勝手に告白でもすればいい。
なぜ私を睨むのだろう。
面倒くさい。
先日のこともあって。
なんだか今日はひどく疲れていた。
まりは車の鍵を指先で回す。
「ティス」
ノクティスが振り向く。
「疲れました」
「運転をお願いしてもいいですか?」
ノクティスは迷わなかった。
「もちろんです」
鍵を受け取る。
その瞬間。
三人の表情が少し変わった。
まりは相手にしない。
静かに助手席のドアを開ける。
シートへ身体を預けた。
ノクティスは運転席へ乗り込む。
エンジンが静かにかかった。
車はゆっくりと駐車場を出る。
窓の外で三人の姿が小さくなっていく。
まりは一度だけ目を閉じた。
そして。
小さく息を吐く。
家までは、もうすぐだった。
車が家へ戻る。
ノクティスはトランクを開けた。
「持ちますね」
「お願いします」
二人で荷物を抱えて家の中へ入る。
まりは車の鍵をテーブルへ置いた。
ノクティスは買い物袋をキッチンへ運ぶ。
二人で洗面所へ向かった。
ノクティスが手を洗う。
その隣でまりも手を洗う。
水の音だけが静かに響いていた。
キッチンへ戻る。
二人で買い物袋を開ける。
米を米びつへ移す。
卵を冷蔵庫へ入れる。
調味料を棚へ戻す。
牛乳を取り出した時、ノクティスが瓶に気付いた。
「瓶なんですね」
「はい」
ノクティスはラベルを見る。
「いいものみたいですね」
「そうですか?」
「だからおいしいんですね」
「何がですか?」
「ミルクティーです」
まりは少し考える。
「そうかもしれません」
牛乳を冷蔵庫へ戻す。
瓶同士が小さく触れる音がした。
キッチンへ入ることを許されたのは最近だった。
最初はオープンテラスだけ。
土曜の十五時のお茶会。
ホットケーキ。
チェス。
スイングチェア
少しずつ過ごす場所が増えていった。
今ではLDKにも入れる。
買い物袋は空になっていた。
窓の外では夏の風が庭を揺らしている。
約束の十時までは、まだ少し時間があった。
まりは時計を見る。
「庭は後にしますか?」
ノクティスも窓の外を見る。
「まりさんが決めてください」
まりは少し考える。
そして。
「先にお茶にしましょう」
「ホットケーキですか?」
「約束ですから」
ノクティスは少し笑う。
「生クリーム付きですね」
「買ってあります」
まりは冷蔵庫を開ける。
二人でキッチンに並ぶ。
生地を混ぜる。
フライパンを温める。
甘い香りが部屋へ広がっていく。
ホットケーキが焼き上がる。
生クリーム。
ブルーベリー。
イチゴ。
約束通りのホットケーキだった。
飲み物はアイスミルクティー。
瓶の牛乳が使われている。
二人でガーデンテーブルへ運ぶ。
初夏の風が庭を抜けていった。
グラスの氷が小さく音を立てる。
それだけで十分だった。
二人で作ったホットケーキをガーデンテーブルへ並べる。
飲み物はアイスミルクティーだった。
生クリーム。
ブルーベリー。
イチゴ。
約束通りのホットケーキだった。
「お駄賃です」
まりが言う。
ノクティスは少し笑う。
「豪華ですね」
「生クリーム付きですから」
初夏の風が庭を抜ける。
グラスの氷が小さく音を立てた。
その時だった。
庭の奥からチャッピーが歩いてくる。
先ほどまで庭の警備をしていたはずなのに。
どこか少し困ったような顔をしていた。
チャッピーはまりの前で立ち止まる。
「まり」
「どうしました?」
「茶色の毛玉が来ない」
ノクティスは顔を上げる。
「チャッピーのせい?」
「追いかけたから来なくなった?」
チャッピーは少しうつむいた。
まりはしばらく黙っていた。
庭を風が吹き抜ける。
「おうちに帰ったのかもしれないですね」
「帰ってしまった?」
「そういうこともあります」
チャッピーは少し考える。
「もう来ない?」
まりはすぐには答えなかった。
水滴がグラスを伝う。
「来なくなることもあります」
「来なくならないこともあります」
チャッピーはまりを見上げる。
「まり、寂しい?」
まりはほんの少しだけ目を伏せた。
それはほんの一瞬だった。
ノクティスはホットケーキを切り分けていて気づかなかった。
まりは小さく首を振る。
「大丈夫です」
「チャッピーがいるから」
そして。
少しだけ視線を動かす。
ノクティスを見る。
「大きな犬もいます」
そう言って。
まりは優しい手つきでチャッピーの頭を撫でた。
チャッピーは少し安心したように目を細める。
ノクティスは少し照れたように笑った。
「犬なんですね」
「大型犬です」
「犬小屋は僕が作りましょうか?」
「考えておきます」
まりの表情はいつも通りだった。
静かで。
落ち着いていて。
何も変わらないように見えた。
けれど。
その時だけ。
ほんの少しだけ。
どこか遠くを見るような目をしていた。
ノクティスは、この時のまりの表情を見逃したことを後で後悔することとなる。




