絵本と牧童
前話「グリーンブリーズ村の図書館」の番外編
〈ウサギとカメ〉を読んでいた少年のお話です。
(本編には登場していません)
トビーは九歳のときからこの村で暮らしている。
グリーンブリーズ牧場の端っこにある小さな小屋がトビーの家だ。
両親が流行り病で亡くなり、この村で牧場を営んでいる親戚に引き取られてから二年が経つ。
トビーがこの村に来たのは、夏の終わりのまだ蒸し暑い時期だった。
「ここがおまえの家だ」
初めて会った親戚の牧場主は、古びた小屋の前でトビーに告げた。
「中にあるもんは、おまえの好きなように使っていい。後で迎えを寄越すから、食事は牧夫たちと一緒にとれ。わかったな?」
有無を言わせぬ迫力に、トビーは思わずうなずいた。
「生活の面倒は見てやるから、明日から牧童の仕事を覚えろ。牧夫たちに迷惑をかけんじゃないぞ」
牧場主がいなくなると、トビーはおずおずと小屋の扉を開けた。
ギィ……と、扉の軋む音がする。
薄暗い小屋の中に目をこらすと――
むき出しの地面の上に、木箱や干し草の束、木製の作業台、熊手やバケツなどが無造作に置かれていた。家具と呼べそうな物はひとつもない。
「ここが、おれの家……?」
板壁の隙間から、すきま風とともに西日が差し込んできた。
***
トビーは牧夫たちの仕事を見よう見まねで覚え、一生懸命働いた。
夜明け前に起き、牛舎の掃除をしてから、搾乳の手伝いと子牛の世話。
朝食後はチーズ作り。桶を洗い、塩を運び、できたチーズを棚に並べる。
それが終わると、牛を放牧地へ追い立てる。
崖に近づかないように誘導し、群れが散らばりすぎないように呼び戻し、壊れた柵がないか見て回る。
昼食には用意されたパンとチーズを食べ、木陰で少し休む。
放牧中は、子牛を狙うオオカミやクマにも注意が必要だ。そのため、牧場に引き取られてすぐ、トビーは投石紐の使い方を教わった。
最初は下手くそだったが、今ではかなり離れた的にも正確に当てられるようになった。
夕方、牛を牛舎に戻し、再び搾乳の手伝い。
仕事を終えた頃には、外は薄暗くなっている。
夕食を食べて小屋に戻ったトビーは、オイルランプの弱々しい灯りの下、荒れてひび割れた手に軟膏を塗り込む。これは図書館を切り盛りしているセレスおばさんにもらったものだ。
セレスおばさんとダンおじさんは、いつもトビーのことを気にかけ、優しい言葉をかけてくれる。この軟膏だって安くはないだろうに。
「……どうしておれなんかに親切にしてくれるんだろう」
ぽつりとつぶやくと、トビーはランプの灯りを消した。
干し草の上に古い毛布を敷いただけの寝床に横たわると、あっという間に深い眠りに落ちた。
***
天候が悪い日や、牧草がまだ伸びていない日などは放牧を中止する。そんな日は朝の仕事が終わると、午後から休みをもらえた。
貴重な半休、トビーは決まって村の図書館へ向かう。
使い古された大きなマントを羽織り、降りしきる雨のなか、荷車が通る道を歩いていく。
足元はぬかるんでいるが、図書館が近づくにつれ、トビーの足取りは軽くなる。
茶色の建物の扉を開けると、セレスが慌てて近づいてきた。
「あれまあ、びしょびしょやないの」
トビーが図書館を訪れるのはだいたい雨の日なので、セレスの第一声はいつも同じだ。
慣れた手つきでマントを脱がせ、タオルで顔や髪を拭くと、トビーの手を引いて階段をのぼる。
手をつなぐのは恥ずかしいが、大きくて柔らかい手を振りほどく気にはなれなかった。
二階にいたダンは、トビーを見ると目を細め、はちみつの入った温かいミルクをくれた。これもいつものこと。
ふたりに甘やかされて、トビーは牧場では見せないような子どもらしい笑みを浮かべた。
村に図書館があると聞いてから、トビーはずっと気になっていた。
けれど、中に入る勇気が出ず、図書館の前をうろうろしたあげく、すごすごと牧場に帰る日が続いた。
そんなある日、いつも閉まっている図書館のドアが、少しだけ開いていた。
――なんで開いてるんだろう。天気がいいからかな?
トビーがそっと中をのぞくと、ドアのそばにいた女性に声をかけられた。
「子ども向けの本があるけえ、読んでいかんね」
「え……、でも……おれ、字がよめない」
「そんなん気にせんでええ」
セレスに手招きされ、おずおずと足を踏み入れた。
――紙とインクの匂いがする。
トビーが鼻をくんくんしていると、木の梁をめぐらせた六角形の天井が目に入った。
じーっと見ていると、階段の上にいた男性と目が合った。
にこっと笑いかけられたので、トビーもぎこちなく笑顔を返す。
視線を戻すと、部屋を囲むように置いてある二段の棚には、たくさんの本が並んでいた。
「すごい……」
トビーが目を輝かせるのを見て、セレスの顔がほころぶ。
「本を読むときはここに座るんよ」
閲覧席にトビーを座らせると、本棚から一冊だけ本を抜き出し、机の上に置いた。
「これは絵本といって、絵だけでもだいたいの内容がわかるようになっとるけえ」
「……そうなんだ。えほん……」
トビーが黙って表紙を見ていると、セレスが題名の文字を指でなぞった。
「ウサギとカメ、って書いてあるんよ」
「へえー……」
「ページをめくってごらん」
「いいの?」
「もちろん、ええよ」
一度手を伸ばしかけてから、トビーは慌てて服で手をこする。
本を汚さないようにという気遣いがうかがえ、セレスは笑みを深めた。
トビーが絵本のページをめくると――
そこには、人間のように話をしているウサギとカメの絵が描かれていた。
トビーはたちまち、絵本の世界に引き込まれていく。
セレスは何も言わず、静かに彼が本を読み終わるのを待った。
「……面白かったかい?」
「うん、おもしろかった。けど……」
「けど?」
「……字が読めたら、もっとおもしろいと思う」
「それなら、おばちゃんが教えようか?」
「ほんとに⁉ あ、でも……おれにおぼえられるかな」
「ゆっくり覚えれば大丈夫やろ。焦る必要もないけえ」
「じゃあ、教えてほしい。えっと……」
「あたしはセレスおばちゃん、あのひとはダンおじさんだよ」
セレスが二階に目をやると、ダンがふりふりと手を振った。
トビーも小さく手を振り返す。
「おれはトビー。グリーンブリーズ牧場で牧童をしてるんだ」
「あれまあ、ちっこいのに立派やねえ。そしたら、時間のあるときでええけえ、いつでもおいで。おばちゃん、待っとるけね」
「うん!」
この日からトビーは、休みがあれば図書館に通うようになった。
「まず、この絵本を読めるようにしようかね。興味のあることから始めるのが一番やろ」
「わかった」
トビーは夢中になって文字を覚えた。絵の下に書かれた記号のようなものが、次第に意味を持っていくのが面白かった。
絵本を自分ひとりで読めるようになったとき、トビーはすごいことをやり遂げたような気分になった。
満面の笑みを浮かべたトビーを、セレスはぎゅうっと抱き締めた。
「よう、がんばったなあ」
「……へへ」
トビーがセレスの背中にそっと腕を回すと、さらに強く抱き締められた。
「くるしいよぉ。セレスおばちゃん」
「あれまあ、ごめんよ。トビーがあんまり可愛いもんだから」
「な、なにいってんだよ。おれ、もう子どもじゃないよ」
「がはは、そりゃあ悪かったね」
このときトビーは十一歳。
セレスから見れば、まだまだ小さな子どもだった。
トビーの身の上は、お喋りな隣人が教えてくれた。
――親戚といってもあまり良い扱いはされてないみたい。なんでも、古い物置小屋にひとりで住まわせてるんやって。
隣人の話を聞いてから、セレスはずっと胸がもやもやしていた。
――このままあの子を放っておけん。
「ねえ、あんた、ちょっと相談なんやけど……」
思い切ってダンに打ち明けると、彼は嬉しそうにうなずいた。
「僕も同じことを考えとった」
***
セレスとダンがトビーを引き取りたいと村の世話役に相談すると、前からトビーの環境に胸を痛めていた世話役は喜んで協力してくれた。
「領主様の図書館を引き継ぐ者がおらんと困るけえ。まあ、あんな物置小屋に住ませるくらいや。あんたもあの子を持て余しとるんやろう」
世話役にそう言われた牧場主は、うなずくしかなかった。
こうして、トビーをセレスたちの養子にする話はまとまった。
あれよあれよという間に、トビーは図書館の隣にある家でセレスたちと暮らすことになった。
――セレスおばちゃんがおかあちゃんになるの? ほんとに?
――ダンおじさんが、おとうちゃんになるの?
トビーは、しつこいくらい何度も聞いた。夢みたいな気がして、なかなか信じられなかったのだ。
自分のベッドで眠り、朝はセレスに起こされ、三人で朝食を食べる。
昼間は村の子どもたちと遊んだり、図書館の手伝いをしたり。
平穏な日々を過ごすうちに、張りつめていた心も少しずつほどけていった。
そんなある日、トビーは図書館で見知らぬ女性に会った。
トビーとそう変わらない年頃に見えるが、彼女は遠い街にある図書館の館長で、なんと転移魔法を使ってここに来ているという。
「はじめまして、トビーくん。私のことはアンって呼んでね。これからも新しい絵本が出版されたら寄贈するから、楽しみにしてて」
「うん……」
にこりと笑われて、トビーの耳が赤くなる。
(あれまあ……)
(おやおや……)
セレスとダンは、そんな息子の様子を微笑ましげに見守った。




