領主と図書館(後編)
ギガ教の襲撃事件の騒動が収まった頃、侯爵が妻にこぼした。
「どうも最近、足の親指の付け根あたりが痛む」
「どこかにぶつけられたのでは?」
「ぶつけた覚えはないが……」
七日間ほどで痛みがなくなったので放っておいたが、しばらくするとまた痛くなった。
妻に勧められて医者に診てもらうと、信じられない診断が下された。
「この病気の原因は、はっきりわからないのですよ」
「わからない?」
「はい。わかっているのは、この症状が出るのは貴族の男性に多いことくらいです。とりあえず、痛み止めを出しておきますので、我慢できないときは飲んでください。あとは患部を冷やし、あまり動かさないことですね」
原因不明の痛みは、やがて親指だけでなく足首にまで広がった。
「クソッ! やぶ医者め、なんで原因がわからないんだ」
怒りをあらわにする侯爵に、妻のクラリスが思いがけないことを言った。
「一度、図書館に行ってみませんか?」
「馬鹿を言うな。なんで、わたしがあんなところに」
「実は、わたくし何度か図書館へ行ってみたの」
「おまえ、あの門を入れたのか⁉」
「え? ええ。フレイヤ様のご加護があると聞いたから、どうしても行ってみたくて。内緒にしていてすみません」
「いや、それはいいんだが……そうか。おまえは入れたのか」
「どういう意味ですか?」
「実は……」
侯爵は、あの土地が王室の所有地であること、あの土地が欲しくてエドガーに探らせたが、図書館の門に阻まれて中に入れなかったこと、ギガ教の司教たちが同じ目にあったと聞き、怖くなったことなどを妻に話した。
「もしかしたら、バチが当たったのかもしれないな」
侯爵は諦めたような表情で足をさすった。
「まだ、あの土地が欲しいと思いますか?」
「……いや、もうそんな気はない」
「だったら、入れるんじゃないかしら。あの図書館の館長さん、とてもいいかたなの。若い女性なんだけど、落ち着いていて賢いかたでね。あなたの足のことを話したら『ツーフー』じゃないかとおっしゃっていたわ」
「ツーフー? 初めて聞いたな」
(医者ですらわからないのに、病名を知っているのか?)
「わたくしも、バチなんかじゃないと思うわ。だって、直接何か仕掛けたわけでもないのでしょ? 噂によると、あの図書館に悪意を持つものだけが入れないそうなの。あなたがもう執着していないなら、きっと入れるわよ」
「そう、だろうか……」
「ええ。チャレンジしてみましょうよ。ね?」
「ああ……わかった」
侯爵は妻の様子に戸惑っていた。
彼女はこんなに明るかっただろうか。地味で大人しくて自分の意見は二の次で、黙ってついてくるような女だったはずなのに。
目の前にいる妻は、まるで知らない女性のようだった。
翌日、侯爵とクラリスは図書館に向かった。
馬車を近くに待機させ、地味な恰好をした侯爵夫妻は門の前まで歩いていった。
侯爵が緊張しているのを見て、クラリスは優しく声をかける。
「手を繋ぎましょうか?」
「いや、ひとりで行ける」
(大丈夫。もう下心はない。絶対、中に入れるはずだ)
侯爵は勇気を出して、足を踏み出した――。
「あなた!」
妻の喜びに溢れた声に目を開けると、侯爵の足は何事もなく図書館の土を踏みしめていた。
「……入れた。はは、入ったぞ。クラリス」
「ええ! 良かったですね。少し、庭を歩きませんか?」
「そうだな」
侯爵はクラリスと共に図書館の庭をゆっくりと歩いた。
赤レンガの図書館に目をやると、透明なガラスの向こうで若い女性が誰かと話しているのが見えた。
あれが館長さんよ、と囁く妻にうなずいた。
背の高い木々から葉擦れの音が聞こえる。
ところどころに置いてあるベンチでは、家族連れやお年寄りがのんびりと話をしている。
柔らかな木漏れ日を浴びながら歩いていくと、『ラピスラズリ』と書いた看板を見つけた。
「こんなところにカフェが?」
(報告にはなかったな)
「素敵でしょ。ここのランチセット美味しいんですよ。食べてみますか?」
「いや、また今度にする」
「ふふ。では、また来ましょうね」
(わたしに内緒でランチまで食べていたとは。しかも、しれっとした顔で、また来ましょうだと?)
やはり妻は変わったと侯爵は思うのだった。
ゆっくりと後戻りしたが、クラリスは図書館に入ろうとは言わなかった。
さっきは気づかなかったが、門を入ってすぐのところに女神フレイアの石像があった。
「きれいでしょ。わたくし、いつもこのベンチに座って石像を見ているの」
侯爵はクラリスに付き合い、ベンチに座って石像を見た。
(こんなにじっくりと石像を見るのは久しぶりだ。確かに美しいな。それに、眼差しがとても温かいような……)
「なんだか、眠くなってきた」
「少しお眠りなさいな」
「ああ……そうする」
日差しを浴びているせいだろうか。
目をつむると、優しい光に包まれているような気がした。
どうやら小一時間ほど眠っていたらしい。
侯爵が目を開けると、驚いたことにあれほど痛かった親指と足首の痛みが和らいでいた。
(まさか、女神の恩寵を受けたのか……?)
「ああ、わたしはなんて馬鹿だったんだ」
この土地が不可侵領域なのは、王室が所有しているからではなく、女神のものだからだ。おそらく、図書館の館長は女神の加護を受けた人間なのだろう。
「そんなことにも気づかないとは、領主失格だ」
「取り返しのつかないことをしてしまう前に、気づいて良かったじゃありませんか」
「そうだな……」
妻の言葉に素直にうなずく。
「わたくしが初めてここを訪れたとき、とても疲れていたの。あなたの具合はちっとも良くならないし、そのせいで前より横暴になったでしょ。わたくしや侍従たちに当たり散らして」
「うっ、その……悪かった」
「しばらくこのベンチに座ってぼんやりしていたら、館長さんが話しかけてくださったの。具合でも悪いんですかって。彼女は不思議なひとでね。わたくしよりずっと若いのに、年上の女性と話しているような気持ちになるの。気がついたら、心に溜まっていた澱のようなものを、すべて吐き出していたわ」
「そうか……」
「それでね、彼女、なんて言ったと思います?」
「さあ、わからないな」
「『ツーフーじゃないかしら』と言ったのよ。元気だしてとか、ご主人を支えてあげてとかじゃないの」
クラリスは楽しそうに笑った。
「『ツーフーというのは中年の男性に多い病気で、お酒をよく飲むひとや、肉や魚をよく食べるひとがかかりやすいんです。できれば、野菜や果物をたくさん食べさせてください』って」
「それで野菜の入った料理が増えたのか!」
「あら、気づいてたんですね」
クラリスはホホホと笑う。
「館長さんに話を聞いてもらったおかげで、気持ちがすっかり楽になったわ。それから、時々ここに来ては、カフェで食事をしたり、図書館の中にある〈祈りの部屋〉でお祈りをしたりしているんです」
侯爵は、なぜ自分の妻が変わったのか、ようやく理解した。
その後、侯爵夫妻は何度も図書館を訪れ、侯爵のツーフーが完治したとき、初めて館長に挨拶をした。
「まあ、領主様だったんですね! ということは、クラリスさんは領主夫人⁉ 申し訳ありません。知らなかったとはいえ、大変失礼な態度を」
「そんな、正体を隠していたこちらが悪いのですから、気にしないでください」
「そうです! わたしのほうこそ、色々と失礼いたしました」
侯爵に頭を下げられた少女のような館長は、何を謝られたのかわからず、きょとんとした顔をしていた。




