異世界の道具
パトリックさんの授業は週に二回。
〈こどもの部屋〉の隣を教室にし、興味のある子にだけ教えてもらっている。
教室では、私の作った本や書き取り帳の他、パトリックさんの持ってきてくれた教材を使って授業をしているようだ。
「小さな子に教えるのは初めてなので、まだまだ手探り状態ですが、やりがいがありますし楽しいですよ」
やる気満々のパトリックさんは、妖精たちにまで声をかけている。
「ララさんとルルさんも授業を受けませんか?」
「ウケナイ!」
「イソガシイ!」
逃げるように飛んでいかれて、パトリックさんは肩を落とす。
どうやら自由気ままな妖精たちに、彼の愛は重すぎるようだ。がんばれ、パトリックさん!
紙が欲しいという子には、インベントリにあった質の悪い紙を小さく切ってあげている。その紙にちょっとしたメッセージを書いて、友だちや家族にプレゼントするのが流行ってるみたい。
嬉しいことに、子どもと一緒に字を覚えようとしている親御さんの姿も、ちょくちょく見かけるようになった。
「字なんか覚えられるわけないって思ってたのに、自分の子が本を読んだり、字を書いたりしてるのを見てると、もしかしたらあたしにもできるかもって思ったんだ」
と恥ずかしそうに語るお母さん。
「子どもが字を読んでくれたのが嬉しくてねえ。俺もここにある音の出る本で、少しずつ字を覚えてるところさ。俺が覚えたら母ちゃんにも教えてやれるしな」
と嬉しそうに話すお父さん。
みんな、本当は字が読めるようになりたいって思ってたのに、自分には無理だって諦めてたんだ。
子どもたちのために始めたことだけど、周りにいるひとたちにもどんどん広がっていく。これって、凄いことなんじゃないかな。
「そう思いませんか?」
パトリックさんに問いかけると、感極まった表情で言葉を詰まらせた。
「本当に、凄いことだと思います……長年、教鞭を執ってきましたが、こんなに感動する光景に出会えたのは初めてです。勉学とは自ら学ぶことなんだと、改めて感じました。わたしも、せっかく妖精と話せるようになったのですから、彼らから直に話を聞き、新たな知識を広げなければ」
「いえ、そこはほどほどにしてください。妖精を怒らせると怖いのは知ってますよね? 第一人者なんですから」
「うぅ、わかりました。それはそうと、家がお店をしている子たちは、早く計算の仕方を覚えたいようですね」
「ええ。それで、私も考えて……あの、ちゃんとした計算方法とかはパトリックさんにおまかせしようと思うんですけど……」
「アンさん、何かおっしゃりたいことがあるなら遠慮しないでください。授業に関してはきちんと話し合う約束でしたよね」
「そうですね。実は、これを使ってみたいんです」
パトリックさんは、私が差し出した物を不思議そうに見つめた。
「これは何ですか?」
「ソロバンという道具です」
「ほお、初めてみました。どうやって使うのですか?」
私はテーブルの上にソロバンを置いた。
日本人ならわかると思うが、ソロバンとは細長い枠のなかに、串に刺した珠が、上に一個、下に四個並んでいる計算するための道具だ。
昔は習い事といえばソロバンか習字だった。水泳だって習ってるのはクラスに一人くらい。ピアノはお金持ちのお嬢様がやるものだと思っていた。
私は小学三年生のときにそろばん塾に通わされた。消防団の二階の広い畳敷きの部屋で、男の先生が一人で教えていた。たぶん二十人くらい生徒がいたと思う。
珠算検定三級までは順調に進んだが、二級が難しすぎて挫折してしまった。どの資格試験もそうだが、なぜ三級と二級の差があんなに激しいんだろう。履歴書に三級は書けないと知ったときはショックだったな。
昔の商店街はレジなんてなかったから、店のひとはソロバンか暗算で計算していた。
毎日通っていた銭湯のおばあちゃんは、下の珠が五個あるごついソロバンを使ってたっけ。一度だけ触らせてもらったけど、珠もやたらと大きくて動かしにくかったなあ。
確か、日本で初めて家庭用の電卓が発売されたのが昭和四十七、八年頃だから、その前はソロバンだけが頼りだったってことよね。
私はパトリックさんの前で、ソロバンの上の珠を左から右へシャーッと弾いてみせた。
「おお……」
「まず、下の珠の一番上を、右手の親指でひとつ上に弾きます。これが一、もうひとつ足すと、二。こうして四つまで珠を上げるとなくなりますよね」
「はい。五はどうするのですか?」
「この梁の上にある珠が五です。なので、これを人差し指で上の珠を下してから、四つの珠を一気に下げるのです」
「ほおーっ! これは面白いですね!」
パトリックさんが興味を持ってくれたようなので、続けて引き算、掛け算、割り算もやってみせた。
「一桁の足し算と引き算から始めて、だんだん繰り上がりや繰り下がりが出来るようにします。慣れてきたら暗算とリンクさせて、頭の中でソロバンを操作できるようになると思うのですが……どうでしょうか?」
はたして受け入れてもらえるだろうか。
ドキドキしながら、パトリックさんの反応を伺う。
「いいと思います。うん、とても面白い。これなら、子どもたちも楽しみながら計算を理解してくれるでしょう。素晴らしい道具ですね!」
「良かったあ。もちろん、もっと難しいことはパトリックさんにお願いしたいです。私が教えられるのはこれくらいですから」
「わかりました。高等数学を習うなら掛け算表を覚えなければなりませんが、お店で使うならソロバンのほうがいいかもしれません。これからも協力し合いましょう。今度、私にもソロバンを教えてください」
「はい、喜んで!」
その後、ダイアナも含めて、大人のソロバン教室を開いた。二人とも楽しそうに覚えてくれたから、なんとかなりそうだ。
*~*~*~*
まずは、二階の受付のそばにソロバンをいくつか置いてみた。
大体の子が「これなに?」と訊いてくる。
計算する道具だよと言うと興味を失う子も多いが、どうやって使うのと訊いてくる子には、基本的な使い方を教えた。
やはり、家が商売をやっている子たちは熱心で、手が空いている職員を見つけると自分から習いにくる。
やがて、ソロバンの使い方を覚えた子どもたちが、親に教えている姿を見かけるようになった。字を覚えたときと同じだ。
その流れで、近くの市場や商店を営んでいる人達から、ソロバンが欲しいという声が上がり始めた。
(どうしよう。ソロバンを受け入れてくれたのは嬉しいけど、さすがに異世界の物を売るのはまずいわよね。ああ、こうなることを見越して対策を考えておくんだった)
悩んだ末に、アルベールさんに相談してみたら、職人ギルドのことを教えてくれた。
「これを持っていって、似たような物が作れないか訊いてみろ。良い職人を紹介してくれるはずだ」
「そっか。新しく作ってもらえばいいんだ。ありがとう、アルベールさん」
「おお。頑張れよ」
アルベールさんが、ポンポンと軽く頭を叩く。
キャサリンに注意されてから、髪をわしゃわしゃしなくなった。ようやく私がレディだと気づいたみたいね。




