世界妖精図鑑
ある秋の日の夕方。
私は受付に座って『世界妖精図鑑』を読んでいた。
この本はいつも二階に置いてあるのだが、子どもたちがいないときは時々借りてきて読んでいる。妖精が見えるようになってからというもの、この本にどれだけ助けられたことか。
「おや、その本はもしかして」
カウンター越しに誰かが話しかけてきた。
顔を上げると、最近よく来てくれる銀髪の穏やかな紳士だった。
(この本に興味があるのかしら)
私は本を閉じて、彼に表紙を見せた。
「この本、ご存知なんですか?」
「ええ、よく知っていますよ」
「面白いですよね。妖精の生態や言い伝えについて、とても詳しく書いてあるので、凄く勉強になりました」
「それは光栄です。実はその本、わたしが二十年ほど前に書いたものなんです」
「えっ、まさか著者のパトリック・デュマ⁉ あ、すみません。呼び捨てで」
「いえいえ、お気になさらず。著書を褒めていただき、ありがとうございます」
「今まで気づかなくて大変失礼しました。まさか、先生がこんなところにいらっしゃるなんて夢にも思わず」
「先生はやめてください。もう教師も引退しましたので、よろしければパトリックと呼んでください」
「そ、そうですか? 私は館長のアンと申します。ところで、パトリックさんは作家なのに先生もしてらしたんですか?」
「はは、教師のほうが本業ですよ。専門が妖精学だったものですから、出版社のかたに声をかけていただいて、この図鑑を作ることになったんです」
「まあ、そうだったんですね。パトリックさんはどんな妖精と契約してるんですか?」
私の問いかけにパトリックさんが表情を曇らせた。
「こんな本を書いてるのにと思われるでしょうが……恥ずかしながら、わたしには妖精が見えないのです。母には妖精が見えていたので、いずれはわたしもと期待していたのですが……さすがにもう諦めました」
パトリックさんは自嘲めいた笑みを浮かべた。
「今では〝妖精の第一人者〟だなんて言われていますが……おかしいですよね、一度も妖精を見たことがない者が第一人者だなんて」
「そんなことは……」
ああ、何て無神経なことを言ってしまったんだろう。今まで一度も彼のそばに妖精がいたことがなかったんだから、考えればわかることなのに。
妖精の本を書いてるなら、当然妖精と契約してると思い込んでしまった。
パトリックさんの気持ちを想像すると胸が痛い。どれほど妖精に焦がれ、どれほど辛い思いをしたことだろう。
そんな彼を不用意な言葉で傷つけてしまった。申し訳なくて、今さら謝ることもできない。
だけど……私なら彼に妖精を見せてあげられる。それがわかっているから、声をかけずにはいられなかった。
「あの、パトリックさん。もしも、妖精を見る方法があるとしたら、どんなことでも受け入れますか?」
「そんな方法があればとっくに試していますが……もし本当に妖精が見られるなら、わたしの残りの人生の半分をあげてもいい」
「やめてください。そんなの、悪魔の契約みたいじゃないですか」
「はは、それくらい切望しているということですよ」
「……わかりました。ゆっくりお話したいので、閉館後まで待っていてくれませんか? 私がパトリックさんの願いを叶えてあげます」
「揶揄うのはやめてください。そんなことできるわけがない……」
パトリックさんの声が震えている。
「そうですね。普通なら無理だと思います」
「まさか……本当に?」
パトリックさんが真剣な目で私を見つめる。
「また後でお話しましょう」
***
閉館後、誰もいなくなった図書室でパトリックさんと話をした。
「実は、私と契約すれば〝妖精が見える目〟というスキルが使えるようになるんです。ただ、これは契約を解除すれば使えなくなる限定スキルです。それに、契約すると私の魔法や図書館の秘密については、話そうとしても話せなくなります。それでも契約したいと思いますか?」
「もちろんです! たとえ一瞬でも彼らを見ることができるのなら!」
「わかりました。私の望む契約内容は、子どもたちに勉強を教えてくれることです。まず字を覚えてもらってから、いずれは簡単な計算なども出来るようにしてあげたい。なかには賢い子もいるので、そういう子はもっと能力を伸ばしてあげたいと思っています」
「なるほど、素晴らしい考えですね。子どもたちの識字率が向上すれば、彼らの生活はもっと豊かになるでしょう。わかりました。子どもたちの教育に尽力します」
「では、雇用契約を結びましょう。ナビ、契約書をお願い」
パトリックさんが契約書にサインをすると、ナビの声が聞こえた。
『雇用契約が成立したので、労働者は雇用主のスキルの一部を使えるようになりました。スキル〈妖精が見える目〉を労働者パトリック・デュマに授けます』
「あ、ああ……まさか、こんなことが……!」
パトリックさんは目の前を飛ぶララとルルに目を奪われている。
「あの、あなたがたは本の妖精、ですよね」
涙声でパトリックさんが訊いた。
「ララー」
「ルルー」
「ララさんとルルさんとおっしゃるのですね。わたしはパトリックです。呼びにくければパットとお呼びください」
「パット!」
「パット!」
「この子たちが本の妖精だって、よくわかりましたね」
「実は、この図書館に通うようになったのも、本の妖精がいるらしいと知人から聞いたからなんです。館内を本が飛ぶのを見るたびに、妖精が運んでいるのだと感動していました」
「そういうことでしたか」
「それなのに、まさか自分の目で見ることができるとは……ああ、神様!」
「あ、そこはフレイア様でお願いします」
「え? でも、実際にはアンさんのおかげで――」
「フレイア様で」
「は、はい。奇跡を起こしてくださったフレイア様に感謝いたします」
パトリックさんはフレイア様に感謝の言葉を捧げた。
よし! これで信者がひとり増えたわ。
私はパトリックさんを二階に連れて行き、音の出る本を見せた。
「ほお、これは素晴らしいですね。遊びながら自然と言葉が覚えられるように工夫されている」
「この本のおかげで、子どもたちも字に興味を持ってくれるようになりました。今、考えているのが書き取り帳なんですけど……」
私は試しに作ったものをパトリックさんに渡した。
「ぜひ、意見を聞かせてください」
「では、拝見します……ほお、薄く字が書いてある。この上をなぞって練習するのですね?」
「はい、いきなり書くのは難しいかと思いまして」
「とてもいい方法だと思いますよ。だが、なぞるのは最初の一文字だけにしたほうがいいかもしれません。おそらく、はみ出さないことに気を取られて、字を覚えるどころではなくなるでしょうから」
「そこまで考えてなかった……これは作り直します。貴重なご意見をありがとうございました」
「いえいえ。わたしも色々と考えてみますね。なんだか、年甲斐もなくワクワクしてきました」
一階に下りながら、
「帰りに土の妖精をご紹介しますね」
とパトリックさんに言った。
「えっ⁉ 土の妖精もいるんですか⁉」
「あ、階段に気をつけてください。はい、テラという可愛い子が」
「行きましょう! は、早く!」
「ああ、そんなに急がなくても。落ちないでくださいねー!」
外が暗くなっていたので、外灯を点けて図書館を出た。
「テラー、いたら出てきてー!」
私が大声で呼ぶと、テラがひょこっと姿を見せてくれた。いつもの赤いとんがり帽子を被っている。
「パトリックさん、この子が土の妖精のテラです」
「はい……見えます。わたしにもちゃんと……」
テラを見たパトリックさんは、涙を流していた。
「やっと会えた……母は、庭でよく土の妖精と話をしていたんです。もちろん同じ妖精ではないでしょうが、あのとき母が見ていたのはこんな光景だったのですね……アンさん、本当にありがとう。わたしの念願を叶えてくれて」
「私ではなく、フレイア様のおかげでしょ?」
「はは、そうでしたね。これからは〈祈りの部屋〉にもっと行くようにします」
「そうしてください。契約通り、今後は週に二日、子どもたちのことをよろしくお願いします。そうだ、剣の妖精もいるので今度紹介しますね」
「けっ、剣の妖精が⁉ いつ来たら会えますか⁉」
「パトリックさん近いです! 落ち着いてください! 一応、契約者のかたには話しておきますけど、こんなふうに突撃しちゃ駄目ですよ! 妖精たちにも嫌われちゃいますからね」
「うっ、すみません。自重いたします。では、くれぐれもよろしくお願いいたします!」
パトリックさんは深々と頭を下げ、門を出ていった。
いやあ、熱量が凄かったなあ。でも、喜んでくれて良かった。これからは先生として働いてくれるなんて、おせっかいもたまには焼いてみるものね。




