三十二話:地獄の始まり
――一年が、過ぎた。
アルセリア平原は、もう何もなかった頃の姿を残していなかった。
風が吹き、草が揺れ、ただ広いだけだった場所。
だが今は違う。
畑がある。
水路がある。
住居がある。
焚き火の煙が立ち、人の声が流れ、朝になれば自然と人が動き出す。
夜になれば火が灯り、食事の匂いが漂う。
それはもう、ただの拠点ではなかった。
“人が生きる場所”だった。
「……ずいぶん変わったね」
肩の上で、シルフィアが呟いた。
小さな精霊は、風に揺れる田を見下ろしている。
「あんなに何もなかったのに」
「ああ」
「最初はみんな、立ってるだけでも怖そうだったのにね」
「今は動く」
「うん。ちゃんと、自分たちで」
シルフィアの声には、少しだけ誇らしさが混じっていた。
レオンは高台から平原を見下ろす。
水路は安定した。
米も回り始めた。
収穫量はまだ十分とは言えないが、少なくとも飢えることはなくなった。
狩りと採集だけに頼っていた頃とは違う。
食料が蓄えられる。
余裕が生まれる。
そして、余裕は人を変える。
アルセリア平原の者たちは、もう昨日までの奴隷ではなかった。
まだ弱い。
まだ未熟。
だが、顔が違う。
ここに居ていいと知った者の顔。
自分の手で明日を作れると知った者の顔。
「屋敷の方も、なんとか続いてるね」
シルフィアが横目で見る。
「今のところはな」
レオンは短く答えた。
この一年、平原と屋敷を行き来する生活は続いていた。
昼は平原。
夜は屋敷。
時には屋敷で何事もなかったように過ごし、時にはリリアナの部屋へ顔を出す。
平原のことは、まだ表には出ていない。
噂になるほどの規模でもない。
だが、それでも綱渡りであることに変わりはなかった。
母エレオノーラは、深く踏み込んではこない。
ただ、優しく言った。
――無理はしないこと。
その言葉は、柔らかかった。
だが、レオンには分かっている。
母は気づいていないのではない。
気づいた上で、見守っている。
そして、見守るということは、何も見ていないという意味ではない。
「エレオノーラ様、優しいけど……なんか全部分かってそうだよね」
「母上だからな」
「それ、理由になってる?」
「なっている」
シルフィアは納得できないように首を傾げた。
「リリアナ、最近は少し安心してるね」
「ああ」
「前より笑うようになった」
「……そうだな」
レオンの返答は短い。
だが、否定はしなかった。
平原が安定し始めたことで、屋敷へ戻る余裕も増えた。
リリアナは、最初こそ寂しさを隠しきれていなかったが、今では少しずつ落ち着いている。
それでも、レオンが部屋を訪れると嬉しそうに笑う。
その顔を見るたびに、レオンは思う。
この場所も。
屋敷も。
どちらも捨てない。
両方取る。
そのために、もっと力がいる。
「そういえば、ヴィオレッタも相変わらず来てるよね」
シルフィアが思い出したように言う。
「騒がしいだけだ」
「でも、心配してくれてるよ?」
「余計なお世話だ」
「次の社交会は来なさいって、毎回言ってるし」
「行かない」
「即答」
シルフィアは呆れたように笑う。
ヴィオレッタ・ヴァルモン。
ヴァルモン公爵家の令嬢で、幼なじみ。
最初は、社交会に来なかったことを怒鳴り込みに来ただけだった。
だがそれ以降も、時折屋敷を訪ねてくるようになった。
用件は毎回似たようなものだ。
社交会に顔を出せ。
リリアナを心配させるな。
無茶をするな。
本人は認めないが、分かりやすい心配だった。
(面倒なやつだ)
そう思う。
だが同時に、理解もしている。
屋敷。
家族。
貴族社会。
社交会。
平原。
奴隷。
魔力。
すべてが別々のものに見えて、実際には繋がっている。
どこか一つだけ変えても、意味はない。
全部を動かす必要がある。
そのためには、今のままでは足りない。
「……主よ」
背後から声がした。
ノクティアだった。
黒い髪を風に揺らし、いつものように余裕のある笑みを浮かべている。
「ずいぶん人間らしい場所になったのう」
「不満か」
「まさか」
ノクティアはくつくつと笑う。
「最初は泥と飢えと怯えだけの群れじゃった。それが一年でここまで変わる。なかなか面白いものを見せてもらったぞ」
「まだ足りない」
「じゃろうな」
ノクティアの目が細くなる。
「主の顔を見れば分かる。守るだけで満足する顔ではない」
シルフィアがため息をついた。
「二人とも、すぐ怖い方向に話を持っていくよね」
「怖いのではない。現実じゃ」
「それを怖いって言うんだよ」
シルフィアが頬を膨らませる。
レオンは二人のやり取りを聞き流し、平原の中心を見た。
人が動いている。
畑を見ているアルティナ。
水路を確認するルシア。
作業班に声をかけるルミナ。
体調の悪い者を見ているフィリア。
道具を改良するエルミナ。
崩れた屋根の補修を落ち着いて指示するリュシエラ。
外周を確認するシエルとリゼ。
木材を運ぶカルネリア。
作業全体を怒鳴りながら回すミレイナ。
そして、その間を泥だらけになりながら走り回り、人手が足りない場所へ真っ先に飛び込んでいくセラフィナ。
少し離れた場所では、レティシアが水と土の流れを見ている。
一年前とは、明らかに違う。
だが――
(まだ弱い)
レオンは静かに判断した。
ここは生きる場所になった。
だが、守る場所になっただけでは意味がない。
屋敷で見た穏やかな母の目。
リリアナの安心した笑顔。
社交会に来ないことを怒るヴィオレッタの声。
そして、平原で前を向き始めた者たち。
すべてを守るには、今のままでは足りない。
すべてを変えるには、もっと足りない。
「……集めろ」
短く命じる。
「……何をするのじゃ?」
ノクティアが興味深そうに目を細める。
「すぐ分かる」
レオンはそれだけ返した。
やがて、十二人が集まった。
空気が変わる。
「次の話をする」
それだけで、全員の意識が揃う。
「今のままでも、生きていける」
一拍。
「だが、それだけだ」
誰も口を挟まない。
「この場所にいれば、飯はある。寝る場所もある」
「無理に働かされることもない」
「壊れたら捨てられることもない」
静かな声。
「だが、外は変わっていない」
空気が、少しだけ重くなる。
「お前らを奴隷にした奴らは、まだ普通に生きている」
「弱い者を踏みつける仕組みも、そのままだ」
「魔力がない者を見下す常識も、奴隷を物のように扱う市場も、何一つ壊れていない」
誰も、目を逸らさなかった。
「この場所は作れた」
一拍。
「だが、この場所を作っただけでは、世界は変わらない」
レオンは十二人を見た。
「それで終わりでいいのか」
一拍。
「踏みつけられて、奪われて」
「何も返さずに終わるのか」
その言葉に、シエルの耳がわずかに動いた。
「奪われたままで」
「踏みつけられたままで」
「お前らを人間扱いしなかった連中が、何も失わずに笑っている」
沈黙。
だが、その沈黙は空っぽではなかった。
怒りがある。
悔しさがある。
それでも、今まで押し殺してきたものがある。
「復讐したいなら、力がいる」
一歩、踏み込む。
「この狂った世界の常識を壊したいなら、力がいる」
視線が鋭くなる。
「お前らは、もうただ生かされる側じゃない」
一拍。
「選べ」
「ここで満足して終わるか」
「それとも——」
一拍。
「奪われたものを、取り返しに行くか」
沈黙。
「……壊したいんだろ」
今度は、その言葉の意味を誰も間違えなかった。
自分たちを踏み潰してきたものを。
奴隷を当然とする世界を。
弱者が黙って死ぬしかない、この狂った仕組みを。
「なら、力がいる」
「その方法はある」
一拍。
「俺がやっていたやつだ」
「……トレーニング?」
ルミナが聞く。
「ああ」
「魔力を増やす」
ルシアが反応する。
「魔力量は固定のはずでは?」
「増やせる。ただし効率は悪い」
一拍。
「最初は一日で0.1%程度だ」
「……は?」
ミレイナが顔をしかめる。
「意味あんの?」
「ある」
レオンは踏み込む。
「複利で増える」
「……複利?」
リュシエラが聞く。
「増えた分も含めて、次の日に増える」
「100が100.1になる」
「次は100.1に対して増える」
「つまり、増えた分も含めて増えていく」
「それを繰り返す」
レティシアが小さく呟く。
「後になるほど増える量が大きくなる」
「ああ」
「一年で差が出る」
「五年で別物になる」
ミレイナが笑う。
「最初ゴミで、後半バケモノってこと?」
「ああ」
一拍置いて、レオンは続ける。
「それと――最初は効率も悪い」
「慣れていないからな」
「だが続ければ、身体が適応する」
「同じことをやっても、消費が減る」
「扱いが上手くなる」
「だから後半は、一日0.5%近くまで伸びる」
ルシアが小さく頷く。
「……つまり、成長そのものは複利で積み上がり」
「効率は別に上がっていく、と」
「ああ」
空気が少し変わる。
ただの根性論ではないと理解した顔だ。
「きついの?」
アルティナが聞く。
「きつい」
「成果は出ない」
「何度もやめたくなる」
一拍。
「俺はやった」
沈黙。
その一言だけで、重さが伝わる。
「強制はしない」
「やりたい奴だけやれ」
「やらなくても生きていける」
そして――
「壊すなら必要だ」
風が吹く。
沈黙。
「……やる」
シエルだった。
「壊したいから」
「やるに決まってるでしょ」
ミレイナ。
「やるやる!」
ルミナ。
「やります」
ルシア。
「守るために」
フィリア。
「私もです!」
セラフィナ。
「……やる」
カルネリア。
「やる」
リゼ。
「変わりたいです」
アルティナ。
「効率上げる」
エルミナ。
「やらない理由がない」
レティシア。
全員。
誰も引かない。
「……決まりだな」
レオンは言った。
「明日から始める」
「途中でやめてもいい」
だが――
「やめた時点で終わりだ」
誰も目を逸らさない。
覚悟は決まっていた。
五年。
長い時間。
だがその先にあるのは――
力。
そして。
壊すための刃。
風が吹く。
田が揺れる。
人の声が響く。
アルセリア平原は、一年で“生きる場所”になった。
そして明日から――
“戦う場所”になる。
「……ここからが、本番だ」
レオンは空を見上げた。
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