三十一話:屋敷
その夜。
レオンは屋敷へ戻った。
風の匂いが変わる。
土と煙と汗の匂いから、磨かれた床と香油の匂いへ。
同じ夜のはずなのに、まるで別の世界だった。
「……屋敷って、静かだね」
肩の上で、シルフィアが小さく呟く。
「ああ」
「平原の方が、生きてる感じする」
「そうだな」
レオンは短く返した。
廊下を進む。
整いすぎた空気。
乱れのない動線。
ここには、無駄も、混乱もない。
その代わり――どこか温度が薄い。
足を止めたのは、リリアナの部屋の前だった。
軽くノックする。
「リリアナ」
「……お兄様?」
少し遅れて、柔らかな声。
扉を開けると、リリアナがベッドの上で本を抱えていた。
「お兄様……!」
ぱっと顔が明るくなる。
それだけで分かる。
待っていたのだと。
「まだ起きていたのか」
「……少しだけ」
「寝ろ」
「はい……でも、少しだけお話してもいいですか?」
小さな声。
拒む理由はない。
「少しだけだ」
「ありがとうございます」
リリアナは嬉しそうに微笑んだ。
以前よりも、その笑顔は自然になっている。
怯えではなく、安心からくるものへ。
「母様が帰ってきました」
「ああ」
「久しぶりにお話できて……嬉しかったです」
「そうか」
「はい。母様も、お兄様のことを気にしていました」
「余計な心配だ」
「ふふ……でも、心配されるのは悪いことじゃないと思います」
小さく笑う。
その仕草も、少し大人びてきていた。
「お兄様は……最近、外に行ってますよね」
「行っている」
「危なくないですか?」
「問題ない」
「……そうですか」
少しだけ安心したように息を吐く。
「お兄様が帰ってきてくれるなら……それで大丈夫です」
「毎日は来られない」
「分かっています」
それでも。
「来てくれるなら、それでいいです」
レオンは短く頷いた。
「ああ」
それだけで十分だった。
「寝ろ」
「はい。おやすみなさい、お兄様」
「おやすみ」
部屋を出る。
扉を閉めた、その時。
「おかえりなさい、レオン」
柔らかな声が廊下に落ちた。
振り返る。
そこに立っていたのは――母。
エレオノーラ・ヴァルディス・アルヴァルト。
優雅なドレスを纏い、穏やかに微笑んでいる。
「母上」
「こんな時間に帰ってくるなんて、珍しいわね」
「少し外に出ていた」
「そう」
それ以上は聞かない。
ただ、静かに一歩近づく。
「元気そうで良かったわ」
「問題ない」
「そうね。あなたは昔から、そういう顔をしているもの」
ふっと微笑む。
「リリアナにも会ってきたのね」
「ああ」
「あの子、あなたが来るのを楽しみにしているのよ」
「分かっている」
「なら、あまり心配させないであげて」
「善処する」
少しだけ間。
エレオノーラは優しく言った。
「無理はしないこと」
それだけだった。
探ることも、疑うこともない。
ただ、母としての言葉。
「……分かった」
「ええ」
満足そうに頷く。
「おやすみなさい、レオン」
「おやすみ」
母は静かに去っていった。
その背は、強くもあり、柔らかくもあった。
「……優しそうな人だったね」
シルフィアが小声で言う。
「ああ」
「でも、なんか……ちゃんと見てる感じもした」
「母上だからな」
「それ、便利な答えだね」
レオンはそれ以上言わなかった。
その夜は、それで終わった。
――そして、翌朝。
屋敷の応接室。
「レオン様。お客様です」
「誰だ」
「ヴァルモン公爵家のご令嬢――ヴィオレッタ様です」
「通せ」
数秒後。
勢いよく扉が開いた。
「レオン!!」
怒声。
そして一直線に歩いてくる少女。
ヴィオレッタ・ヴァルモン。
腕を組み、完全に怒っている顔だった。
「なんで社交会に来なかったのよ!!」
開幕それだった。
「興味がない」
「あるなしの問題じゃないでしょ!?」
机を叩く勢いで詰め寄る。
「どれだけ探したと思ってるのよ!? 一人でずっと相手する羽目になったんだから!」
「知らないな」
「でしょうね!!」
シルフィアが小声で言う。
「朝から元気だねこの子」
「黙ってろ」
「聞こえてるわよ!」
ヴィオレッタが睨む。
そして、大きく息を吐いた。
「……ほんと、変わらないわね」
「そうか」
「そうよ」
一拍。
「でも、ああいう場はちゃんと顔出しなさい」
「必要ない」
「必要あるの!」
即答だった。
「あなたがどう思ってようと、周りはそう見ないの」
「興味がない」
「ほんっと……」
頭を抱える。
だが、完全には怒りきれていない。
「……まあいいわ」
少しだけ声が落ちる。
「無事ならそれでいい」
一瞬だけ、本音が混じった。
すぐにそっぽを向く。
「べ、別に心配してたわけじゃないけど!」
「そうか」
「そうよ!」
一拍。
「……でも次は来なさい」
「嫌だ」
「即答するな!」
机を叩く。
シルフィアが笑う。
「仲いいね」
「よくない!!」
ヴィオレッタが即否定する。
そして、少しだけ落ち着いた声で言った。
「リリアナにはちゃんと会いに来なさいよ」
「行っている」
「ならいいわ」
それだけ言って、踵を返す。
扉の前で止まり、振り返る。
「……あんた、無茶するタイプなんだから」
一拍。
「ちゃんと帰ってきなさいよ」
それだけ言って、出ていった。
扉が閉まる。
静けさが戻る。
「……騒がしいな」
「でもいい子だよね」
「否定はしない」
レオンは窓の外を見る。
平原と屋敷。
裏と表。
両方が、確実に動き始めている。
「……全部使う」
小さく呟く。
壊すために。
そのための準備は、もう始まっている。




