第六話 守れなかった一瞬
車列が高架下へ差しかかったとき、夏芽はわずかな違和感を覚える。
前方の信号は赤。
交差点の向こうに停車しているトラック。歩道に立つ人影。雨の中、傘も差さずに立っている男。
不自然な点はいくつもある。
「車を止めてください」
夏芽の声に、運転手が反応する。
しかし、その直後だった。
前方のトラックの荷台が開き、銃口がこちらを向く。
「伏せて!」
夏芽は鷲一郎の肩を押し、座席の下へ身体を沈めさせる。
銃声。
フロントガラスに弾痕が走り、運転手がハンドルに突っ伏す。車体が縁石に乗り上げ、激しく揺れた。
夏芽は鷲一郎の頭を押さえたまま、ドアを蹴り開ける。
「車から出ないでください」
「夏芽!」
「ここにいてください」
返事を待たず、彼女は車外へ飛び出す。
敵は五人。
前方に三人。後方に二人。
銃を持つ者が三人。残りは刃物と鈍器。
夏芽は車体を盾にして銃撃を避ける。
まず銃を持つ敵を止める。
一人目の射線が車体から外れた瞬間、夏芽は踏み込む。銃口を逸らし、手首を斬る。男が武器を落とす。
二人目が発砲する。
弾丸が夏芽の肩口をかすめる。
彼女は止まらない。
車の陰へ潜り、男の懐へ入る。刀の柄で顎を打ち、崩れた身体を蹴り倒す。
残る一人が鷲一郎の車へ向かう。
夏芽は即座に進路を塞ぐ。
男の腕を斬り、銃を落とさせる。続けて足を払う。
男が地面へ倒れた。
そのとき、背後で小さな金属音が鳴る。
夏芽は振り返る。車の反対側。
黒い服の女が立っている。
長い黒髪。閉じられた瞼。手には細い刃物。
盲目の女。
夏芽は刀を構え直す。
「あなたが、白鬼神?」
女は静かに言う。
「鷲一郎さんから離れてください」
「それは難しいわね」
女が踏み込む。
速い。
夏芽は刃を受ける。金属音が響き、火花が散る。
二度目の斬撃を受け流し、三度目を弾く。
女の動きには迷いがない。
視線を合わせる必要もない。夏芽の足音、呼吸、衣擦れを拾い、攻撃の位置を正確に見定めている。
夏芽は相手の右側へ回り込む。
女の刃が追ってくる。
読まれている。
夏芽は一度距離を取る。
その背後で、倒した男が銃へ手を伸ばしているのが見えた。
放置できない。
夏芽は一瞬だけ女から意識を外し、男の手を踏みつける。
銃を蹴り飛ばす。
その一瞬。
女の足音が消えた。夏芽は振り返る。
女はもう、そこにいない。
車体の向こう側へ回っている。
「鷲一郎さん!」
夏芽が走る。
女は車のドアを開けていた。
鷲一郎が座席から身体を起こす。
夏芽は刀を投げるように振るう。
刃が女の肩をかすめる。しかし、届かない。
女の手が動く。
細い刃が鷲一郎の胸元へ滑り込む。
「――っ!」
鷲一郎の身体が大きく揺れる。
刃は心臓を外している。だが、深く刺さっていた。
女はすぐに刃を引き抜く。
夏芽が斬りかかる。
女は半歩だけ身を引き、刀の軌道を外す。続けて夏芽の手首を打つ。
刀が逸れる。
夏芽は体勢を崩しながらも、女の服を掴もうとする。
指先が布地に触れる。
しかし、女はその手を振りほどき、雨の降る路地へ身を滑らせる。
「待って!」
夏芽は追おうとする。
その背後から、鷲一郎の声が聞こえた。
「……夏芽」
振り返る。
鷲一郎の身体が座席に沈んでいる。
着物の胸元が赤く染まっていく。
夏芽は追跡をやめる。
刀を収め、鷲一郎のもとへ駆け寄る。
「鷲一郎さん!」
傷口を押さえる。
手のひらに血が溢れる。
「しっかりしてください。今、救急車を呼びます」
「……あの女は」
「逃げました」
「追わなかったのか」
「鷲一郎さんを優先しました」
鷲一郎は苦しそうに息を吐く。
「そうか…」
夏芽は傷口を押さえる手に力を込める。
彼女の判断は間違っていない。
銃を持つ敵を先に止めたことも、車へ接近する敵を排除したことも、最後に追跡を諦めて鷲一郎の救命を優先したことも。
護衛として、必要な判断だった。
それでも。鷲一郎は刺された。
夏芽の目の前で。
彼女が守ると決めた人間が、彼女のすぐそばで傷ついた。
女は最初から、夏芽を倒す必要などなかった。
夏芽に敵を処理させ、判断を迫り、わずかな時間を奪えばよかった。
そのわずかな時間で、目的は達成された。
夏芽は血に濡れた手を押し当て続ける。
「鷲一郎さん。聞こえますか」
「ああ……」
「目を閉じないでください」
「……分かっている」
遠くから救急車のサイレンが近づいてくる。
夏芽は鷲一郎の顔を見つめる。
自分の判断が間違っていたとは思わない。
しかし、守れなかった。
その事実だけは、どれだけ理由を並べても変わらなかった。




