第七話 女の代償
病室には、消毒液の匂いが漂っている。
白川鷲一郎はベッドの上で上半身を起こしていた。胸元には厚い包帯が巻かれ、点滴の管が腕につながっている。医師からは絶対安静を命じられていた。傷は深く、少し身体を動かすだけでも激痛が走る。
そのベッドの脇に、夏芽が立っている。
「組長。容体はいかがですか」
「見ての通りだ。死んじゃいねえ」
「そうですか」
夏芽は短く答える。
表情に大きな変化はない。けれど、その視線は鷲一郎の胸元に巻かれた包帯へ向けられていた。
あの刃が届いた場所、自分が守れなかった場所。
夏芽は、そこから目を離せずにいる。
「夏芽」
「はい」
「そんな顔をするな」
「……どんな顔でしょうか」
「自分の失敗を数えている顔だ」
夏芽は答えない。
鷲一郎は小さく息を吐く。
「お前だけの責任じゃねえ。あの場にいた人間は全員、何かしらの判断をしていた」
「ですが、私ちゃんは組長の護衛です」
「だから何だ」
「組長を守るために、そばにいました」
「分かっている」
「それなのに、守れませんでした」
鷲一郎は彼女を見つめる。
「お前が何を考えているかは分かる。だが、今はそれ以上言うな」
夏芽は静かに頭を下げた。
そのとき、病室の扉が開く。
入ってきたのは、白鷺組の幹部三人だった。いずれも古参で、組の中でも発言力を持つ男たちだ。
「組長、お加減はいかがですか」
「見ての通りだ。用件を言え」
鷲一郎の返事は淡々としている。
男たちは夏芽に目を向けた。
「組長。今回の襲撃について、話があります」
「聞こう」
「この女の護衛についてです」
夏芽は黙っている。
「組長を守るために雇った人間が、結果として組長に刃を届かせた。これは重大な失態です」
「相手はただの襲撃者じゃねえ。複数の銃撃に、あの盲目の女までいた」
鷲一郎が口を挟む。
しかし、幹部の一人は首を横に振った。
「それでも護衛は護衛でしょう。組長を守れなかった事実は変わりません」
別の男が吐き捨てる。
「そもそも、女に組長の護衛など務まるはずがない。最初から反対だったんです。白鷺組の恥になると申し上げたはずだ」
「女が刀を振り回したところで、組長を守れるわけがない」
鷲一郎の目が細くなる。
「黙れ」
低い声が病室に響く。
「今回の責任を問うのは俺だ。お前らが勝手に決めることじゃねえ」
「ですが、組長は今、動ける状態ではありません」
「だから何だ」
「組の管理を我々が引き受けている以上、護衛の処遇についても判断する必要があります」
「俺が決めると言っている」
男たちは一度口を閉じる。
しかし、その目には納得の色がない。
「……改めて、本人から事情を聞かせていただきます」
「必要ねえ」
「組長のためにも、けじめは必要です」
男たちはそれだけ言い残し、病室を出ていく。
扉が閉まる。
夏芽は鷲一郎の方へ向き直った。
「組長。私ちゃんの責任です」
「夏芽」
「申し訳ありませんでした」
「謝罪は聞いた。だが、まだ話は終わってねえ」
鷲一郎は彼女を見据える。
「お前が何をしたか、俺は見ている。あの状況で何を優先したのかもな」
「……はい」
「自分だけで責任を背負うな」
夏芽は答えない。
鷲一郎の言葉を受け止めるように、静かに頭を下げる。
その日の午後、夏芽のもとに組からの正式な聴取通知が届く。
場所は病院内の会議室。襲撃事件の経緯と護衛上の判断について、幹部立ち会いのもとで確認するという内容だった。
夏芽は通知を読み、指定された時間に病室を出る。
廊下には、迎えに来た組員が二人立っていた。
「こちらです」
「分かりました」
案内された先は、病院の会議室だった。
部屋に入ると、先ほどの幹部三人が待っている。机の上には書類が並べられ、扉のそばには別の組員が立っていた。
「座れ」
夏芽は椅子に腰を下ろす。
「まず、襲撃時の状況を説明しろ」
「車列が高架下に差しかかったところで、銃撃を受けました。私ちゃんは組長を車内に伏せさせ、車外へ出て応戦しました」
「敵の人数は」
「確認できた範囲では複数です。銃を持った者を優先して無力化しました」
「その間に、あの女が接近した」
「はい」
「盲目の女だったそうだな」
「はい。音や足音を利用して、こちらの動きを読んでいました」
「それで、組長を刺されたわけか」
「……はい」
男の一人が書類を机に置く。
「つまり、お前は敵の接近を許した」
「結果としては、そうなります」
「自分の判断が間違っていたとは思わないのか」
「判断そのものに、誤りがなかったとは言い切れません」
夏芽は視線を落とさない。
「複数の銃撃者を放置すれば、組長だけでなく車列全体に被害が出ていました。私ちゃんは銃を持つ敵を優先しました。その間に、もう一人が組長へ接近しました」
「言い訳か」
「いいえ。事実を説明しています」
幹部の一人が鼻で笑う。
「ずいぶんと冷静だな。組長に傷を負わせておいて」
「冷静でいなければ、状況を説明できません」
「女のくせに、口だけは達者だ」
夏芽は反論しない。
男は机を指で叩く。
「お前は組長の護衛として失敗した。それは認めるんだな」
「はい」
「ならば、責任を取れ」
「処遇については、組長の判断に従います」
「組長の判断?」
男の表情が険しくなる。
「お前はまだ、組長に取り入るつもりか」
「そのようなつもりはありません」
「なら、今ここで自分の失態を認めろ」
「先ほどから認めています」
その瞬間、男の手が飛ぶ。
乾いた音が会議室に響いた。
夏芽の顔が横へ向く。
頬に熱が広がる。
「その態度が気に入らねえんだよ」
別の男が立ち上がり、夏芽の腕をつかむ。
彼女は振りほどける。相手の重心も、腕の角度も見えている。
だが、動かない。ここは病院だ。
相手は白鷺組の人間だ。
鷲一郎の組員を傷つけることは、彼女の望むところではない。
「立て」
腕を引かれ、夏芽は立ち上がる。
「組長のところへ戻るぞ」
「何のためにですか」
「お前自身の口で謝罪させる。組長の前でな」
夏芽は黙って従う。
病室へ戻ると、鷲一郎はベッドの上で目を閉じていた。
扉の音に気づき、ゆっくりと目を開ける。
「何の真似だ」
幹部の一人が答える。
「組長。本人を連れてきました。今回の失態について、直接謝罪させます」
「俺はそんなことを頼んでいねえ」
「組長のお気持ちは分かります。しかし、組としてけじめをつける必要があります」
「その話は終わったはずだ」
「まだ終わっていません」
男が夏芽の背中を押す。
「謝れ」
夏芽は一歩前へ出る。
「組長。申し訳ありませんでした」
「もういい。下がれ」
「ですが、組長!!」
「聞こえなかったか。夏芽を離せ」
腕をつかんでいた男は、手を放さない。
「組長。これは組の問題です」
「俺の護衛の問題だ」
「その護衛が組長を守れなかったんです」
「だから、責任は俺が判断する」
男の一人が夏芽の髪をつかむ。
夏芽の頭が強引に引き下げられる。
「離せ」
鷲一郎の声が鋭くなる。
「今すぐ手を放せ」
「組長、これは必要なことです」
次の瞬間、男の拳が夏芽の頬を打つ。
彼女の身体が傾く。
続けて腹部に蹴りが入る。
息が詰まり、膝が床につく。
「女を護衛にするからこうなるんだ」
別の男が言う。
「最初から分かっていた。女に組長を守れるはずがない」
髪をつかまれ、顔を上げさせられる。
再び拳が飛ぶ。
夏芽は受け身を取ることもできる。相手の手首を折ることも、喉元を押さえて床に伏せさせることもできる。
それでも、反撃しない。
彼女は刀を持っていない。
ここで相手を倒せば、白鷺組の人間に刃を向けたことになる。
そして何より、目の前には負傷した鷲一郎がいる。
騒ぎを大きくするわけにはいかない。
「やめろ!」
鷲一郎が身体を起こそうとする。
胸の傷に痛みが走り、顔が歪む。
「組長、動いてはいけません!」
夏芽が声を上げる。
「黙れ!」
男が夏芽の脇腹を蹴る。
彼女の身体が床に倒れる。
「お前が組長を守れなかったんだろうが」
「女が組長のそばに立つから、こういうことになる」
「組長の信頼を裏切った責任を取れ」
靴が身体に当たる。
一度ではない。
脇腹を蹴られ、背中を踏みつけられる。髪を引かれて顔を上げさせられたかと思えば、今度は床へ叩きつけられる。
夏芽の呼吸が乱れる。
咳き込んだ拍子に、口元から血がこぼれた。
「立て」
男が命じる。
夏芽は片手を床につく。腕に力を込めるが、身体が思うように動かない。
その背中に、再び靴が落ちる。
「誰が立っていいと言った」
「やめろと言っている!」
鷲一郎がベッドの柵をつかむ。
「組長、少し黙っていてください」
「貴様……!」
鷲一郎が身体を動かそうとする。
しかし、胸の傷がそれを許さない。顔を歪め、荒い息を吐く。
夏芽は床に手をついたまま、どうにか上半身を起こす。
口の中に血の味が広がっている。
視界が揺れる。
それでも、鷲一郎の姿を探す。
「……組長」
「夏芽、喋るな」
「私ちゃんは……」
男の一人が髪をつかみ、無理やり顔を上げさせる。
「何だ。まだ言い訳があるのか」
夏芽は男を見ない。
視線は鷲一郎へ向けられている。
彼の胸元に巻かれた包帯。
そこに残る傷。
自分が止められなかった一瞬。
夏芽は浅く息を吸う。
「組長を襲ったあの女の首を持ってきます」
病室の空気が止まる。
男たちの手が、一瞬だけ止まった。
「……何だと?」
夏芽は視線を逸らさない。
「組長を襲った、あの盲目の女の首を、私ちゃんが持ってきます」
声は大きくない。
怒鳴っているわけでもない。
だが、そこには先ほどまでの謝罪とは違うものがあった。
自分の失敗を認める言葉ではない。
許しを請う言葉でもない。
彼女は、これから何をするのかを告げている。
あの女を見つける。
どこへ逃げようと追う。
次に刃を交えるときは、逃がさない。
相手が自分より強かろうと、どれほど不利な状況に追い込まれようと、今度は必ず仕留める。
その結果、自分がどうなろうと構わない。
少なくとも、今の夏芽にはそう思えるほどの覚悟があった。
「お前に何ができる。そいつを取り逃がしたのは誰だ」
「私ちゃんです」
「そうだ。お前の失態だろうが」
「はい」
夏芽は否定しない。
「私ちゃんが、組長を守れませんでした」
その言葉に、鷲一郎の眉が動く。
「だからこそ、私ちゃんが終わらせます」
「首を持ってきたところで、組長に負わせた傷が消えるわけじゃねえぞ!」
「分かっています」
「だったら、軽々しく口にするな!」
男の拳が夏芽の顔を打つ。
彼女の身体が床へ傾く。
それでも、夏芽は目を逸らさない。
「軽々しく言っているつもりはありません」
声がかすれる。
脇腹が痛む。
頬が熱を持っている。
息を吸うたびに身体の奥が軋む。
それでも、言葉は途切れない。
「私ちゃんは、あの女を見つけます」
「黙れ!」
「必ず、見つけます」
「黙れと言っている!」
「そして、今度こそ仕留めます」
男が髪をつかむ手に力を込める。
「女のくせに、何を大口叩いてやがる!」
「やめろ!」
鷲一郎の怒声が病室に響く。
しかし男は手を放さない。
「お前は組長を守れなかったんだ。今さら何を誓ったところで、信用できるか!」
夏芽は答えない。
ただ、鷲一郎を見ている。
「夏芽、もういい。そんな約束をするな」
鷲一郎の声がわずかに揺れる。
「お前は今、何を言っているのか分かっているのか」
「はい」
「分かっているなら、そんなことを口にするな」
「……申し訳ありません」
「謝るな」
鷲一郎はベッドの柵を強く握る。
「俺のために、お前まで命を投げ出すんじゃねえ」
夏芽は答えない。
彼女は自分の命を差し出すつもりで言ったわけではない。
ただ、次は失敗しないと決めた。
あの女を逃がさない。
鷲一郎に二度と刃を届かせない。
そのために必要なことから、目を逸らすつもりはなかった。
男の拳が再び頬を打つ。
夏芽の身体が床に崩れる。
「黙れ!」
それでも、彼女は言葉を取り消さない。
幹部の一人が夏芽の腕を踏みつける。
「その口を閉じろ」
腕に痛みが走る。
夏芽は声を上げない。
もう一人が彼女の襟元をつかみ、身体を引き起こす。抵抗する力が残っていないことを確かめるように、顔を覗き込む。
「二度と組長の前で偉そうな口を利くな。お前は護衛に失敗した女だ。それを忘れるな」
「……はい」
「聞こえねえ」
「はい」
返事をした直後、腹部に蹴りが入る。
夏芽の身体が折れる。
息が吸えない。
床に手をつき、何度か呼吸を試みる。喉の奥から、押し殺した咳が漏れた。
鷲一郎はベッドの上で拳を握り締める。
「貴様ら……いい加減にしろ!」
「組長、落ち着いてください」
「ふざけるな。俺の目の前で何をしている!」
鷲一郎が身体を起こそうとする。
その瞬間、胸元の包帯に赤い染みが広がる。
「組長!」
夏芽が顔を上げる。
男たちも動きを止めた。
鷲一郎の呼吸が乱れ、ベッドの柵を握る手に力が入る。
「医者を呼べ!」
幹部の一人が扉の外へ声をかける。
看護師が駆け込んでくる。
「何をしているんですか! 患者さんを動かさないでください!」
看護師は鷲一郎の状態を確認し、医師を呼ぶよう指示する。
「皆さん、病室から出てください!」
「だが、こいつの処遇がまだ――」
「患者さんの容体が悪化しています! すぐに出てください!」
幹部たちは不満げに顔をしかめる。
それでも、医療スタッフに促され、病室から出ていく。
夏芽は床に座り込んだまま、鷲一郎を見ていた。
「夏芽……」
「はい」
「お前も、そこで何をしている。立てるか」
「……大丈夫です」
「大丈夫なわけがあるか」
「組長の方が、先です」
鷲一郎は彼女を睨む。
「そういうところだと言っている」
その声には怒りが滲んでいる。
「お前は自分の命を安く見積もりすぎだ」
夏芽は返事をしない。
医師と看護師が鷲一郎の処置を始める。
看護師の一人が夏芽にも声をかける。
「あなたも怪我をしています。こちらへ来てください」
「必要ありません」
「顔から血が出ています。歩ける状態ではないでしょう」
「大丈夫です」
「そんなわけがないでしょう。診察を受けてください」
夏芽はゆっくりと立ち上がる。
足元がふらつく。壁に手をつき、どうにか身体を支える。
「お願いですから、座ってください」
「……すみません」
謝罪だけを残し、夏芽は病室を出る。
看護師が追いかけようとするが、鷲一郎の処置を離れるわけにはいかない。
「おい!夏芽!」
鷲一郎の声が背中に届く。
彼女は一度だけ足を止める。
振り返ると、ベッドの上の鷲一郎と目が合った。
「勝手に行くな」
「申し訳ありません」
「夏芽!」
それ以上は答えず、彼女は病室を出た。
廊下の窓から、夕方の光が差し込んでいる。
夏芽は壁に手をつきながら歩く。
頬は腫れ、唇の端が切れている。脇腹には蹴られた痛みが残り、呼吸をするたびに身体の奥が軋む。
それでも、足を止めない。
受付を通り、病院の出入口へ向かう。
誰かに呼び止められた気がしたが、振り返らなかった。
外へ出る。
冷たい風が頬を撫でる。
夏芽はそこで一度、立ち止まった。
本来なら、すぐにでも盲目の女を追うべきなのかもしれない。
あの女の居場所を探し、襲撃の手掛かりを集め、次の対決に備える。
だが、今の自分には何もない。
敵の名前も、拠点も、行動範囲も分からない。
手掛かりも足りない。
この状態で闇雲に探しても、同じように相手の思惑に乗せられるだけだ。
夏芽は自分の手を見る。
指先がわずかに震えている。
握り込むと、痛みが走った。
「……まずは」
小さく呟く。向かう先は、別にある。
ロウのところだ。
二人で始めようとしていた計画。
VTuber事務所を立ち上げるという、まだ形にもなっていない夢。
夏芽は白鷺組で用心棒を引き受けたとき、そのための軍資金を作るつもりだった。
ロウは事務所の拠点を探し、必要な準備を進めているはずだ。
自分が失敗したからといって、その計画まで投げ出すわけにはいかない。
あれは、二人で決めたことだ。
夏芽は上着の内側に手を入れる。
そこには、折り目のついた書類が入っている。
事務所の候補地についてまとめた資料。
必要な設備、初期費用の見積もり。
これから決めるべきこと。
まだ何も始まっていない。
だからこそ、始めなければならない。
「……ロウさんのところへ行かないと」
その声は、風に消えそうなほど小さかった。
夏芽は歩き出す。
一歩ごとに脇腹が痛む。視界が揺れることもある。
それでも、病院へ戻るつもりはなかった。
今の自分に必要なのは、ただ傷を抱えて立ち止まることではない。
自分がこれから何をするのか、確かめることだ。
ロウと始めるはずだった事務所。
その計画を進める、必要な金を稼ぐ。
自分たちの居場所を作る。
そして、その先にある決着から逃げない。
夏芽は歩きながら、胸の中で言葉を繰り返す。
組長を襲った盲目の女の首を持ってくる。
あれは、その場を切り抜けるための言葉ではない。
幹部たちに認めさせるための言葉でもない。
自分が口にした以上、実現させる。
そのために、まずは何をすべきかを考える。
犯人を追うのは、情報を集めてからだ。
相手の戦い方を知り、自分の失敗を分析し、次に同じ状況を作らせないための準備をする。
今度は、追う側になる。
そして、刃を交えるときには終わらせる。
夏芽は歩き続ける。
病院の建物が背後に遠ざかっていく。
ロウのいる場所は、まだ先だ。
彼と顔を合わせることも、まだできていない。
ただ、向かう先だけは決まっている。
夏芽は腫れた頬を拭い、前を向く。
彼女の足取りは重い。
それでも、止まらない。
病院の外へ出た夏芽は、まだ盲目の女を追わない。
最初に向かうのは、二人で始めるはずだった未来の場所だ。
その未来を手放さないために。
そして、いつか必ず、あの女の首を持ち帰るために。




