第四話 港の七番倉庫
午前十時を過ぎても、白鷺組の事務所には重苦しい空気が残っている。
窓の外では、組員たちが慌ただしく出入りしている。電話の声。廊下を歩く足音。煙草の煙。いつもと変わらないはずの光景なのに、どこか落ち着かない。
夏芽は応接間の隅に立ち、鷲一郎の指示を待っている。
先ほどから、幹部たちの視線が何度も彼女へ向けられている。
好意的なものではない。
「……港の七番倉庫、ですか」
鷲一郎が机の上に置いた紙へ目を落とす。
昨夜、白鷺組の名前を使って金を集めていた男。その男が運び屋として関わっていた場所だ。
「そうです。本人の話では、そこで封筒を渡したとのことです」
「相手の顔は見ていないんだったな」
「はい。指示を受けて運んだだけだと」
鷲一郎は煙草を手に取るが、火はつけない。
「使い走りの言葉だけじゃ、何も決められねえな」
「……はい」
「だが、調べる価値はある」
鷲一郎が顔を上げる。
「夏芽。お前が見たという運送会社の倉庫、その場所をもう一度説明しろ」
夏芽は記憶をたどり、建物の位置や出入口、周辺の道路について簡潔に伝える。
鷲一郎は途中で口を挟まず、最後まで聞いている。
「七番倉庫とは少し離れていますが、港の裏側で道がつながっています。荷物を移すことも、人目を避けて移動することも可能だと思います」
「なるほどな」
鷲一郎は机を指先で軽く叩く。
「確証はねえ。だが、無関係と決めつける理由もねえ」
そのとき、部屋の入口から声が飛んでくる。
「組長、俺たちに任せてください」
入ってきたのは、昨日から夏芽への当たりが強い幹部の一人だ。後ろには若い組員が二人ついている。
「港のことなら、昔からこっちで面倒を見ています。わざわざ新入りを連れていく必要はないでしょう」
新入り。夏芽は表情を変えない。
白鷺組に来てから、彼女は何度もそう呼ばれている。組長直属の用心棒という立場を認めたくない者にとって、彼女はいつまでも外から来た女にすぎない。
「新入りかどうかは関係ねえ」
鷲一郎は静かに返す。
「こいつが現場で見たものがある。それを確認するために連れていく」
「しかし、港は危険です。女を連れていけば、余計な足手まといになる可能性もあります」
「足手まといになるかどうかは、行ってから判断しろ」
「組長……」
「それとも、お前は女一人に何かされるのが怖いのか」
幹部の口が止まる。
鷲一郎は声を荒らげない。ただ、鋭い目を向ける。
「実力で劣ると思うなら、そう言えばいい。女だからという理由で仕事から外すのは、筋が通らねえ」
幹部の頬がわずかに引きつる。
「……承知しました」
「お前たちは事務所に残れ。港へは俺と夏芽、それから二人だけ連れていく。人数を増やせば目立つ」
「ですが、護衛なら男を――」
「話は終わりだ」
鷲一郎の一言で、幹部は口を閉ざす。
男たちは不満を隠そうともせず、部屋を出ていく。
扉が閉まる。
夏芽は小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「礼を言う話じゃねえ。お前の仕事を決めるのは俺だ」
「はい」
「それと、昨日の傷はどうだ」
夏芽の視線が、腕へ落ちる。
銃弾がかすめた箇所には包帯が巻かれている。傷は深くない。動かすことにも支障はない。
「問題ありません」
「その言葉は聞き飽きた」
「……申し訳ありません」
「謝れとは言ってねえ」
鷲一郎は小さく息を吐く。
「痛むなら痛むと言え。動けることと、傷が治っていることは別だ」
「……はい」
「今日は無理をするな。危険があれば引け。相手を捕まえることより、情報を持ち帰ることを優先しろ」
「承知しました」
夏芽の返事に、鷲一郎はようやく立ち上がる。
「行くぞ」
港へ向かう車の中は静かだ。
運転席には古参の組員。助手席には若い組員が座り、後部座席には鷲一郎と夏芽が並んでいる。
窓の外を、倉庫やコンテナが流れていく。
港に近づくにつれ、潮の匂いが濃くなる。大型トラックが行き交い、作業員たちが荷物を運んでいる。クレーンの金属音が遠くで響き、海鳥の鳴き声が風に混じる。
「夏芽」
「はい」
「七番倉庫に着いても、すぐには中へ入らねえ」
「周囲の確認を優先する、ということでしょうか」
「そうだ。相手が本当にそこにいるなら、こっちの動きを見張っている可能性もある」
鷲一郎は窓の外へ目を向ける。
「昨日の男が何者かに使われていたとして、その相手が白鷺組の人間を知っているなら、なおさらだ」
「……内通者の可能性もありますね」
「可能性の話だ。今は誰も疑うな。疑うのは、確かめてからでいい」
夏芽は頷く。
車が大きな倉庫群を抜け、舗装の荒れた道へ入る。
やがて、七番倉庫の看板が見えてくる。
車が少し手前で止まる。
「ここから歩く」
鷲一郎が先に降りる。夏芽はその半歩後ろにつき、周囲を見渡す。
倉庫の正面には大型トラックが一台停まっている。荷台には何も積まれていない。シャッターは半分ほど開いているが、中の様子は外からではわからない。
人の気配はある。
しかし、荷物を運ぶ作業員の姿が見えない。
「……妙ですね」
夏芽が小さく呟く。
「何がだ」
「トラックが停まっているのに、荷下ろしをしている人がいません。運送業務のために使っている倉庫なら、もう少し人の出入りがあってもよさそうです」
鷲一郎は倉庫の周囲へ視線を巡らせる。
「確かに、静かすぎるな」
彼は後ろの組員へ目配せする。
二人は離れて周囲を確認し始める。
夏芽は倉庫の側面へ目を向けた。
壁際に、煙草の吸い殻がいくつも落ちている。新しいものもあれば、雨に濡れて古くなったものもある。
その先には、人が一人通れるほどの細い通路がある。
「組長。裏手を確認します」
「一人で行くな。俺も行く」
「ですが――」
「指示だ」
「……承知しました」
二人は建物の側面を回る。
通路の先には、錆びた鉄扉がある。扉の前には木箱が積まれているが、どれも空のように軽く、わざと通路を狭めるように置かれている。
夏芽は足を止めた。
地面に細い擦過痕が残っている。
何か重いものを引きずった跡だ。
その跡は扉の向こうへ続いている。
「……誰かが、ここを使っています」
鷲一郎はしゃがみ込み、地面を確認する。
「最近の跡だな」
「はい」
その瞬間、倉庫の中から金属音が響く。
カン、と一度。
続けて、何かが倒れる音。
二人は顔を上げる。
鷲一郎が手を上げ、夏芽を制する。
音が止む。
風の音だけが通路を抜ける。
「……夏芽」
「はい」
「俺の後ろにつけ。勝手に飛び出すな」
「承知しました」
鷲一郎は鉄扉に近づき、隙間から中を覗く。
薄暗い室内に、積み上げられた段ボールと木箱が見える。その奥に、人影が一つ。
人影は背を向けている。
手元で何かを扱っているようだ。
鷲一郎が扉を押す。
蝶番が鈍い音を立てる。
人影が振り返る。
次の瞬間、その人物は手にしていた物を放り出し、倉庫の奥へ走り出す。
「止まれ!」
鷲一郎の声が響く。
夏芽は反射的に動きかける。
だが、鷲一郎の指示が脳裏をよぎる。
勝手に飛び出すな。
彼女は一瞬だけ足を止め、鷲一郎の位置と逃走経路を確認する。
逃げた人物は、倉庫奥の搬入口へ向かっている。
そこから外へ出れば、コンテナの間を抜けて姿をくらませることができる。
「組長、右奥に搬出口があります」
「わかった。回り込むぞ」
二人は倉庫を出て、建物の反対側へ回る。
走る足音が響く。
夏芽は鷲一郎の歩調に合わせながら、先回りできる経路を探す。無理に距離を詰めれば、組長を危険にさらす。ここで必要なのは、速さだけではない。
角を曲がった瞬間、逃げてきた人物が目の前に現れる。
相手は驚き、足を止める。
黒い作業着。帽子を深くかぶり、顔の大半を隠している。右手には小さな鞄を持っている。
「どけ!」
男が夏芽へ突っ込んでくる。
夏芽は刀の柄に手をかける。
抜かない。
相手の肩が迫る直前、身体を半歩だけ横へずらす。男の勢いが空を切る。夏芽はその腕をつかみ、重心を崩して地面へ押さえ込む。
男の膝がコンクリートに落ちる。
「ぐっ……!」
鞄が手から滑り、地面へ転がる。
夏芽は男の腕を押さえたまま、鷲一郎へ視線を向ける。
「確保しました」
「よし。そのまま押さえていろ」
鷲一郎が近づく。
男は身をよじり、夏芽の手を振りほどこうとする。
「離せ、この女!」
「動かないでください」
「ふざけるな!」
男が肘を振り上げる。
夏芽は関節を押さえる角度をわずかに変える。男の動きが止まり、苦痛に顔が歪む。
「抵抗をやめてください。これ以上は、怪我をさせます」
「女が……!」
「性別は関係ありません」
夏芽の声は静かだ。
男が歯を剥く。
「関係あるだろうが! 女のくせに、俺を押さえつけやがって!」
「……そうですか」
夏芽はそれ以上、言葉を返さない。
鷲一郎が男の前に立つ。
「ここで何をしていた」
「知らねえよ!」
「その鞄は何だ」
「俺のもんだ!」
「なら、中を見せろ」
「断る!」
鷲一郎は表情を変えない。
「お前がここで何をしていたか、俺たちはまだ知らねえ。だが、逃げる理由があることだけはわかった」
男は口を閉ざす。
鷲一郎は夏芽へ視線を向ける。
「手を緩めるな。だが、折るなよ」
「はい」
鷲一郎が鞄を拾い上げる。
中には封筒が数通と、携帯電話、それから小さな帳面が入っている。
封筒の一つには、白鷺組の名が記されていた。
鷲一郎の目が細くなる。
「……なるほどな」
彼は封筒を開けず、帳面をめくる。
日付。金額。短い記号のような文字列。そして、何度も繰り返される同じ数字。
七。
鷲一郎は帳面を閉じる。
「こいつを連れて帰る」
「組長、こいつは何者でしょうか」
「それを今から聞く」
男は地面に押さえられたまま、鷲一郎を睨みつける。
「俺は何も知らねえ。荷物を運んでいただけだ!」
「昨日の男と同じことを言うんだな」
男の表情が、一瞬だけ変わる。
ほんのわずかな動き。
だが、夏芽は見逃さない。
鷲一郎もまた、目を細める。
「……今の反応で十分だ」
男の顔から血の気が引く。
白鷺組へ戻ると、事務所の空気はさらに張り詰める。
鷲一郎は押収した帳面と封筒を机に並べ、幹部たちを呼び集める。
夏芽は男を別室へ連れていく組員を見届けてから、応接間へ戻る。
そこでは、先ほど彼女を新入りと呼んだ幹部が、帳面を覗き込んでいる。
「これは……」
「港の七番倉庫で見つけた。白鷺組の名を使った金の流れが記録されている可能性がある」
鷲一郎の説明に、幹部たちの顔つきが変わる。
「組長、これは誰かが組の名前を利用しているということですか」
「まだ断定はできねえ」
「しかし、もし組員が関わっているなら……」
「だから調べる」
鷲一郎は帳面を閉じ、机の上に置く。
「この件は外へ漏らすな。港の関係者にも、余計な接触をするな。相手がこっちの動きを見ているなら、騒いだ時点で証拠を消される」
幹部たちは頷く。
その中の一人が、ふと夏芽へ目を向ける。
「……それにしても、女一人に男を押さえつけられるとはな」
声には、感心よりも不快感が滲んでいる。
「たまたま隙を突いただけでしょう。実戦なら、そう簡単にはいかない」
別の組員が続ける。
「そもそも、組長が現場へ連れ出すから余計な危険が増えるんです。護衛なら、もっと体格のいい男をつければいい」
夏芽は何も言わない。
鷲一郎が顔を上げる。
「お前たちは、何を見ていた」
幹部たちが黙る。
「夏芽は俺の指示に従い、逃走経路を見極め、相手を確保した。余計な怪我もさせていねえ。お前たちが気に入らねえのは、その結果か。それとも、やったのが女だということか」
「いえ、そういう意味では……」
「なら、結果を見ろ」
鷲一郎の声は低い。
「組の人間を守れるかどうか。それが用心棒の仕事だ。男か女かは関係ねえ」
幹部たちは視線をそらす。
しかし、その沈黙は納得ではない。
夏芽にはわかっている。
彼らは、目の前で起きたことさえ都合よく解釈しようとする。自分たちの価値観を脅かすものを、実力ではなく偶然や不正な手段のせいにする。
ここでどれほど成果を積み重ねても、簡単には認められない。
それでも、彼女は仕事を続ける。
自分の評価のためではない。
鷲一郎を守るために、必要だからだ。
「夏芽」
「はい」
「今日はもう下がれ。傷の手当てを受け直せ」
「ですが、押収した帳面の確認が――」
「それは俺たちでやる」
「……承知しました」
夏芽は一礼する。
応接間を出ようとした、そのとき。
「組長」
若い組員の一人が、戸口から顔を出す。
「捕まえた男が、話し始めました」
鷲一郎の視線が鋭くなる。
「何と言っている」
「七番倉庫には、荷物を受け取りに来ただけだと。ただ……」
「ただ、何だ」
組員は一度だけ夏芽を見て、それから鷲一郎へ向き直る。
「荷物を渡す相手は、白鷺組の人間だったと言っています」
部屋の空気が凍りつく。
誰も口を開かない。
鷲一郎は机の上の帳面へ目を落とす。
「……名前は」
「まだ言いません。ですが、顔は知っているそうです」
「そうか」
鷲一郎はゆっくりと立ち上がる。
「引き続き話を聞け。無理に吐かせるな。証言が使い物にならなくなれば意味がねえ」
「承知しました」
組員が退室する。
鷲一郎はしばらく黙ったまま、机の上の封筒を見つめている。
やがて、夏芽へ視線を向ける。
「……どうやら、外だけの話じゃ済まねえようだ」
「はい」
「誰が関わっているか、まだわからねえ。だから、誰も信用するなとは言わねえが、誰の言葉も鵜呑みにするな」
「承知しました」
夏芽は深く頭を下げる。
事務所を出ると、廊下の向こうから組員たちの話し声が聞こえる。
その中に、彼女を嘲る声が混じっている。
「組長のお気に入りだからな」
「女のくせに、いい身分だ」
「どうせ、いつか足を引っ張る」
夏芽は足を止めない。
聞こえなかったふりをすることには慣れている。
だが、言葉が消えるわけではない。
胸の奥に小さな棘のように残り、それでも彼女は歩き続ける。
港の七番倉庫で見つかった帳面。
白鷺組の名が記された封筒。
そして、荷物を受け取ったという組の人間。
外部の敵が仕掛けた罠なのか。それとも、組の内側から崩そうとする者がいるのか。
まだ答えは出ない。
ただ一つ確かなのは、夏芽が守るべき場所には、刀で斬れば済む相手ばかりがいるわけではないということだ。
彼女は腰の刀にそっと触れる。
鞘の中の刃は、何も語らない。
それでも、いずれ抜かなければならない瞬間が来る。
そのときに迷わないために、今は見極める。
誰が敵で、誰が味方なのか。
そして、この組の中で、自分がどこまで戦えるのか。
夏芽は静かに歩き続ける。




