第二話 女の居場所
男の顔が、コンクリートに叩きつけられる。
「がっ……!」
鈍い音が路地に響く。
男が呻きながら顔を上げようとすると、黒い革靴が後頭部を踏みつける。頬が地面に押しつけられ、口の端から流れる血が、濡れたアスファルトに細い筋を引く。
「誰に断って、この縄張りで商売してやがる」
「し、知らねえ……!」
「まだ口が利けるじゃねえか」
男の襟首が乱暴につかまれる。
次の瞬間、身体が持ち上がり、壁に叩きつけられる。背中を強打した男が咳き込み、足元に唾液と血を吐く。
白鷺組の裏門へ続く路地。
朝の光が建物の隙間からわずかに差し込む。表通りでは店のシャッターが上がり始め、遠くから配送車のエンジン音が聞こえる。
そのすぐ裏で、一人の男が殴られ続けている。
「お前、昨日どこに顔を出した」
組員が男の胸ぐらをつかみ、顔をのぞき込む。
「知らねえって……!」
「白鷺組の名前を使って、よその店から金を巻き上げたそうだな」
「俺じゃねえ! 俺は言われたとおりに――」
拳が飛ぶ。
男の言葉が途切れる。
鼻から流れる血が上唇を覆い、顎を伝って襟元へ落ちる。男は腹を抱えて膝をつくが、すぐさま髪をつかまれ、無理やり顔を上げさせられる。
「誰に言われた」
「……っ、やめ……」
「誰に言われたって聞いてんだよ!」
腹に蹴りが入る。
男の身体が折れ、喉の奥から潰れたような声が漏れる。
周囲を囲む組員たちは、誰一人として止めない。
むしろ、苛立ちを募らせている。
「さっさと吐けよ」
「朝から面倒かけやがって」
「こういう半端者がいるから、余計な揉め事が増えるんだ」
そのとき、路地の入口に人影が現れる。
夏芽だ。
黒い羽織の裾を揺らし、腰に刀を差したまま、彼女は足を止める。
視線の先では、男が再び殴られている。
拳が頬にめり込み、男が倒れる。
襟首をつかまれ、引きずり起こされる。
また殴られる。
地面に飛び散った血を、誰かの靴底が踏み荒らす。
「……何をしているんですか」
夏芽の声に、組員たちが振り返る。
一瞬だけ、路地が静まる。
男を殴っていた若い組員が、血のついた拳を見下ろし、それから夏芽を見る。
「見りゃわかるだろ。取り調べだ」
「その方は、白鷺組に何を?」
「組の名前を勝手に使ったんだとよ。組長に話が行く前に、こいつの口から聞き出してんだ」
そう言って、男は倒れた男の脇腹を蹴る。
呻き声が上がる。
夏芽は眉ひとつ動かさない。
「もう十分ではありませんか」
「あ?」
「話せる状態ではないように見えます」
若い組員の顔が歪む。
「お前、俺たちのやり方に口を出す気か?」
「そういうつもりではありません。ただ、このままでは――」
「女は黙ってろ」
男が一歩近づく。
「組長のそばに立たせてもらってるからって、自分まで偉くなったつもりか? 用心棒だか何だか知らねえが、俺たちの仕事に口を挟むんじゃねえよ」
夏芽は黙る。
男の拳には、まだ血がついている。
「だいたい、女が刀を差して歩いてること自体が気に食わねえんだ。お前は組長の命令だけ聞いてりゃいい。余計なことを考えるな」
「……承知しました」
夏芽は静かに頭を下げる。
組員は鼻で笑い、再び男へ向き直る。
「ほら、続きだ。誰の指図で動いた」
「ちが……俺は……」
拳が振り上がる。
夏芽はその場を離れる。
背後で、また殴打の音がする。
彼女は振り返らない。
止める権限がないわけではない。腕ずくで制圧することもできる。
だが、組長の許可なく組員同士の揉め事に介入すれば、それはそれで新たな火種になる。相手が本当に白鷺組を裏切った人間なら、なおさらだ。
今の自分にできるのは、鷲一郎に報告することだ。
そう判断して歩き出した、そのとき。
「ぎゃあああっ!」
路地の奥から悲鳴が上がる。
夏芽は足を止める。
振り返る。
倒れていた男の腕が、背中側へ不自然にねじり上げられている。組員の一人が、男の肩を踏みつけている。
「最後に聞くぞ。誰に命令された」
「知らねえ……! 本当に、知らねえんだ……!」
「だったら、もう片方も折るか」
夏芽の指が刀の柄に触れる。
だが、抜かない。
代わりに、彼女は路地へ戻る。
「そこまでにしてください」
低くはない。声を荒らげてもいない。
それでも、男たちの動きが止まる。
夏芽は倒れた男の様子を一瞥し、組員たちを見る。
「組長に報告します。事情を確認するまで、これ以上はやめてください」
「てめえ……」
若い組員が立ち上がる。
「何度言えばわかる。女が俺たちに指図するな!」
男が夏芽の胸元をつかもうと手を伸ばす。
夏芽は半歩だけ身を引き、伸びてきた手が空を切る。
男の顔が怒りで赤くなる。
「避けてんじゃねえよ!」
「……触らないでください」
「何だと?」
「仕事の邪魔になりますので」
男の手が、今度は夏芽の肩へ伸びる。
夏芽はその手首を取る。
ほんのわずかに角度を変える。
「っ、あ……!」
男の膝が落ちる。
骨が折れたわけではない。だが、関節を押さえられた痛みに、男は顔を歪めて呻く。
夏芽はすぐに手を離す。
「申し訳ありません。ですが、これ以上はやめてください」
路地に沈黙が落ちる。
男は手首を押さえ、信じられないものを見るように夏芽を睨む。
「このアマ……!」
「何を騒いでいる」
新たな声が響く。
路地の入口に、年配の幹部が立っている。
男たちは慌てて姿勢を正す。
「兄貴。こいつが俺たちの取り調べに口を挟んできたんです」
若い組員が、すかさず夏芽を指さす。
「しかも、俺に手を出しやがった」
幹部は夏芽を見る。
次に、地面に倒れた男を見る。血に濡れた顔。腫れ上がった頬。苦しそうに上下する肩。
そして、手首を押さえる若い組員。
「何があった」
「私は、組長に報告すると伝えただけです」
「こいつが勝手に――」
「お前には聞いていない」
幹部の一喝に、若い組員が口を閉じる。
幹部はしばらく夏芽を見つめるが、やがて吐き捨てるように言う。
「女がしゃしゃり出るから、話がややこしくなるんだ」
夏芽は反論しない。
「この男の処分は俺達が決める。お前は組長のところへ行け。余計な騒ぎを起こすな」
「……承知しました」
夏芽は一礼する。踵を返す。
今度こそ、路地を離れる。
背後からは、再び怒鳴り声が聞こえ始める。
男を殴る音も。
夏芽は歩みを緩めない。
白鷺組では、正しいことを口にすれば正しい結果が得られるとは限らない。
女であれば、なおさらだ。
彼女が止めようとした暴力は、彼女が去ったあとも続く。
その事実だけが、朝の空気に重く残っている。




