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第一話 白鷺組の女

間羅の国の裏通りには、昼間から血の匂いがする場所がある。

表通りから一本外れた路地。シャッターの下りた古い店舗。壁に残る弾痕。排水溝に流れ込んだ赤黒い染み。

誰が殴られたのか。誰が刺されたのか。誰が二度と戻らなかったのか。


近所の人間は、いちいち気にしない。

気にしていたら、この街では暮らしていけない。

白鷺組は、そんな土地に根を張る古い任侠組織だった。


無闇に堅気を巻き込まない。縄張りの人間から不必要に金を巻き上げない。受けた恩は返す。売られた喧嘩からは逃げない。


掲げているのは、綺麗事ばかりではない。

堅気を守るのも、街の秩序を保つのも、結局は白鷺組がこの土地で商売を続けるためだ。住民に嫌われ、警察に目をつけられ、商売相手に見限られれば、組織は長くもたない。

筋を通すことと、損をしないこと。

白鷺組の組長、白川鷲一郎は、その二つを切り離して考えたことがなかった。


*


「組長。冗談でしょう?」


白鷺組本部の応接間で、幹部の男が声を上げた。

畳の上には灰皿と湯呑み。煙草の煙が天井近くに薄くたまっている。

上座に座る鷲一郎は、男の声にも顔色ひとつ変えなかった。


「何がだ」

「例の用心棒ですよ。あれを本当に組長の身辺につけるんですか」

「そう言ったはずだが」

「女でしょう」


男は、まるでそれだけで話が終わったとでもいうように吐き捨てた。


「腕が立つだの、警護隊にいたことがあるだの、そんな話は聞きましたよ。だがね、組長。ここは警護隊じゃねえ。白鷺組です。男が命を張って稼いできた場所に、どこの馬の骨とも知れねえ女を置くってのは、どういう了見ですか」

「どこの馬の骨かは調べてある」

「そういう話じゃねえんですよ」

「なら、どういう話だ」


鷲一郎が顔を上げた。

鋭い眼差しに射抜かれ、男は一瞬だけ言葉を詰まらせた。

それでも引き下がらない。


「女に背中を預けられるかって話です。いざとなりゃ、こっちが女を守る羽目になる。足手まといを抱えて抗争なんぞ、笑い話にもならねえ」

「お前は、その女と一度でも組んだのか」

「いや、まだですが」

「なら、何を根拠に足手まといだと言っている」

「女だからですよ」


あまりにも堂々とした返答だった。

同席していた幹部の一人が鼻で笑う。


「まあ、若い女が一人いりゃ、組長も退屈しないでしょうがね」


下卑た笑いが二、三人の口から漏れた。

鷲一郎は笑わなかった。


「話は終わりだ」

「組長!」

「俺が雇った。俺が使う。気に入らねえなら、お前が俺の判断を覆せるだけの材料を持ってこい」


低い声だった。

怒鳴りもしなければ、机を叩きもしない。

それでも、応接間から笑い声は消えた。


「腕の立つ人間を、女だという理由だけで捨てるほど、うちは人材に困ってねえ。違うか」


幹部たちは黙り込んだ。

鷲一郎は湯呑みを手に取り、冷めた茶を一口飲んだ。


「呼んでこい」


*


襖が開いた。

「失礼いたします」


入ってきた女は、静かに一礼した。

夏芽。短い髪には若白髪が混じり、琥珀色の瞳には、必要以上に周囲を警戒する者特有の緊張があった。


黒い羽織の下に淡い灰色の着物。下衣は動きやすい黒の袴風の戦闘着で、腰には刀を差している。

派手さはない。だが、どの部分にも無駄がなかった。

彼女の立ち方は、いつでも動ける人間のそれだった。


「夏芽です。本日から、よろしくお願いいたします」


丁寧な挨拶だった。

幹部の男は、彼女の頭から足先までを値踏みするように眺めた。


「……ずいぶん小綺麗な格好をしてるじゃねえか」

「ありがとうございます」

「褒めたつもりはねえよ」

「失礼いたしました」


夏芽は、それ以上何も言わなかった。

男は舌打ちした。

反抗的なら、女のくせに生意気だと責める。黙っていれば、愛想がないと責める。

初めから認めるつもりがないのだ。


「警護隊にいたそうだな」

「はい」

「何年だ」

「必要な期間、所属しておりました」

「質問に答えろ」

「……詳細は、採用時に組長へお伝えしております」


男の眉が跳ね上がった。


「てめえ、俺に隠し事をする気か」

「そのようなつもりはありません。組長にお伝えした内容について、私から改めて申し上げる必要はないと判断しました」

「女のくせに、判断だと?」


男が身を乗り出す。


「お前が何をできるかなんぞ、こっちは知らねえんだ。組長に気に入られたからって、ここで偉そうに振る舞えると思うなよ」

「はい」

「返事だけは一丁前だな」

「申し訳ありません」


夏芽は頭を下げた。

その態度が気に入らないのか、男はますます顔を歪めた。


「謝りゃ済むと思ってんのか。女はこれだから使えねえんだ」

「……」

「おい、聞いてんのか」

「はい。聞いております」

「だったら、何か言え!」


夏芽は、わずかに目を伏せた。


「……申し上げることは、ございません」


男の拳が畳を叩いた。


「舐めやがって」

「そこまでにしろ」


鷲一郎の一言で、男の動きが止まった。


「だが、組長。こいつは――」

「お前の気に入る人間を雇うために、俺が金を払っているわけじゃねえ」


鷲一郎は夏芽に目を向けた。


「夏芽。こいつらは、お前の腕を知らねえ。俺が口で説明したところで、納得する気もないらしい」

「はい」

「なら、見せてやれ」


夏芽は一礼した。


「承知しました」


*


白鷺組本部の裏手には、小さな稽古場があった。

畳の一部は擦り切れ、壁際には木刀や竹刀が並んでいる。若い組員たちが集められ、何が始まるのかと遠巻きに様子をうかがっていた。


「女と稽古だってよ」

「組長も何を考えてんだか」

「怪我させたら、こっちが悪者だろ」


囁き声は夏芽にも聞こえていた。

聞こえていても、彼女は反応しない。

鷲一郎の前で、幹部の男が腕を組んだ。


「こいつとやらせるんですかい」


男が指したのは、組内でも腕っ節が強いことで知られる若い組員だった。

肩幅が広く、首が太い。喧嘩慣れした身体つきで、手の甲には古い傷が残っている。


「そうだ」

「おい、手加減してやれよ」


幹部が若い組員に声をかけた。


「相手は女だからな。泣かせちまったら寝覚めが悪い」


周囲で笑いが起きた。

若い組員は、夏芽を見て口元を歪めた。


「大丈夫ですよ。ちょっと転がして、組長にわからせてやります」


夏芽は、鷲一郎に確認した。


「……武器は必要でしょうか」

「好きにしろ」

「承知しました」


彼女は腰の刀に手を添えたが、抜かなかった。

代わりに、壁際に置かれていた木刀を一本取った。

若い組員が鼻を鳴らす。


「それでいいのか? 真剣じゃなくて」

「はい」

「遠慮しなくていいぜ。女だからって、俺もそこまで鬼じゃねえ」

「……ありがとうございます」


夏芽は木刀を構えた。姿勢は自然だった。

肩に力は入っていない。腕も上がりすぎていない。足の位置は、前にも後ろにも動けるように整えられている。

若い組員は、最初、それを何とも思わなかった。

ただ木刀を持っているだけに見えたのだ。


「始め!」


声が響く。

若い組員は、すぐに踏み込んだ。


大振りの一撃。


女相手に長引かせるつもりはなかった。最初の一発で木刀を叩き落とし、そのまま押さえ込む。そうすれば、周囲の連中も納得するだろう。

だが、木刀は空を切った。

夏芽は正面から受けなかった。

半歩、外へ。

若い組員の腕が伸びきる。

その脇を抜けざま、夏芽の木刀が男の手首を打った。


「っ!」


指が開く。

木刀が床に落ちるより早く、夏芽は相手の懐へ入っていた。

肩を押し、重心を崩す。

男の身体が傾き、夏芽は足を払った。

背中から畳へ叩きつけられた男が、息を詰まらせる。

ほんの一瞬の出来事だった。

稽古場から笑い声が消えた。


「……続けますか?」


夏芽は、倒れた男に尋ねた。

男は顔を赤くして起き上がった。


「ふざけんな!」


今度は構えもなく、真正面から掴みかかってきた。

夏芽は退かなかった。

相手の腕を受け流し、肘を押さえる。身体を捻り、関節を極める。

鈍い音がした。


「ぐあっ!」


男の膝が床についた。

夏芽は、さらに押さえ込もうとはしなかった。

相手が動きを止めた時点で、手を離した。


「……勝負ありです」


静まり返った稽古場に、彼女の声だけが落ちた。

男は右腕を抱え、歯を食いしばっている。骨が折れたわけではない。だが、無理に動かせばしばらく痛みが残るだろう。

夏芽は木刀を元の場所へ戻した。


「失礼いたしました」


誰に対する謝罪なのか、はっきりしない言葉だった。

鷲一郎は、煙草を指先で回した。


「どうだ」


幹部の男は、すぐには答えなかった。


「……今のは、たまたまです」

「そうか」

「相手が油断していたんですよ。男なら、あんな簡単に――」

「なら、お前がやってみろ」


鷲一郎は淡々と言った。

男は口を閉じた。


「俺は構わねえぞ。納得するまでやればいい」

「……いえ。そこまでする必要はありません」

「そうか」


鷲一郎は、そこで話を切った。

夏芽の方へ向き直る。


「ご苦労だったな」

「ありがとうございます」

「怪我はないか」

「はい。問題ありません」

「そうか」


それだけだった。

大袈裟に褒めることも、彼女の腕を周囲へ誇示することもしない。


鷲一郎にとって、腕の立つ人間を雇うのは当然のことだった。実力を示したなら、仕事を任せる。それ以上でも、それ以下でもない。


だが、周囲の男たちにとっては違った。

女が、自分たちの仲間を倒した。

しかも、力任せに殴り合ったわけでも、相手が偶然転んだわけでもない。

身体の使い方も、間合いの詰め方も、判断の速さも、素人のそれではなかった。

認めたくなくても、目の前で起きたことは消せない。


「……調子に乗るなよ」


すれ違いざま、幹部の男が夏芽に囁いた。


「一度勝ったくらいで、ここで大きな顔ができると思うな。お前は女だ。俺たちの組に入った以上、その立場をわきまえろ」


夏芽は足を止めた。


「……はい」


それ以上は何も言わなかった。

男は舌打ちし、背を向けた。

夏芽は、鷲一郎の後ろを歩いた。

勝ったところで、歓迎されるわけではない。

むしろ、勝ったからこそ恨まれる。

彼女は、そのことを、女である誰よりも理解していた。


*


その日の夕方、鷲一郎は夏芽を自分の執務室へ呼んだ。

机の上には、黒い箱と、丁寧に包まれた大きな荷物が置かれている。


「そこへ座れ」

「はい」


夏芽が向かいに座ると、鷲一郎は黒い箱を開いた。

中には、黒い腕時計が収められていた。

文字盤は控えめで、余計な装飾はない。見た目以上に頑丈な作りで、細部の仕上げも上質だった。


「これを使え」

「……時計、ですか?」

「見りゃわかるだろう」

「はい。ですが……」

「護衛の仕事で、時間を読み違えられても困る。お前の使っているものは古いと聞いた」


夏芽は時計を見つめた。

確かに、今まで使っていた時計は長年の任務で傷がつき、ベルトにも擦れがあった。時刻を確認するには十分だったから、買い替える理由もなかった。


「……これ、私ちゃんがいただいていいんですか?」

「お前の働きに対する報酬だ。遠慮するな」

「……ありがとうございます。大切に使わせていただきます」

「大切にしすぎて、仕事に支障を出すなよ」

「はい」


鷲一郎は、続いて机の上の包みを指した。


「そっちもだ」

「こちらは……?」

「開けてみろ」


夏芽は包みを解いた。

中にあったのは、和装の一式だった。

黒い短めの羽織。淡い灰色の着物。動きやすさを重視した黒い袴風の戦闘着。刀を安定して携行するための丈夫な黒帯。そして、足音を抑えながら走りやすい履物。


どれも実戦を考えた仕立てだった。


袖は刀を振るときに邪魔にならない。裾は足に絡まない。身体を捻り、踏み込み、床に転がっても動きを妨げないよう、余分な布は抑えられている。

それでいて、粗末には見えなかった。

白鷺組の組長直属の用心棒として、人前に立つための装束でもある。


「……こちらも、私ちゃんにですか?」

「他に誰が着る」

「ですが、今の服でも仕事には支障ありません」

「俺が支障があると言っている」


鷲一郎は、淡々と答えた。


「組長直属の用心棒が、みすぼらしい格好をしているわけにもいかん。お前がどんな格好で俺のそばに立っているかは、白鷺組の看板にも関わる」

「……承知しました」

「それに、仕立て屋にはお前の動き方を伝えてある。腕を上げたときに袖が引っ張られないように、刀を抜くときに裾が絡まないように。必要なところは調整させた」


夏芽は、もう一度装束を見た。

細部にまで気が配られている。

ただ高価なものを与えられたのではない。

自分の仕事を考えたうえで、用意されたものだった。


「……ありがとうございます。私ちゃん、こんなにしていただくほどのことは、まだ何も」

「今日の稽古を見て、腕が足りねえと思ったか?」

「いいえ」

「なら、余計なことを考えるな。必要だから用意した。それだけだ」


鷲一郎は、書類を一枚引き寄せた。


「着てみて、動きにくいところがあれば直させろ。遠慮して使いにくいものを着続けるのは、金の無駄だ」

「……はい」

「それから」


鷲一郎は、書類から目を上げた。


「お前は、自分の命を安く見積もりすぎだ」


夏芽の手が止まった。


「……大丈夫ですよ。私ちゃん、慣れてますから」

「そういう話をしているんじゃねえ」


鷲一郎は額に手を当てた。


「慣れているから何だ。痛みを感じなくなるわけでも、死ななくなるわけでもねえだろう」

「……申し訳ありません」

「謝れと言ってるんじゃねえ」


低い声だった。

怒鳴らないからこそ、言葉が重い。


「俺の護衛をするなら、生きて仕事を続けろ。勝手に死んで、俺に後始末を押しつけるんじゃねえ」


夏芽は、しばらく黙っていた。

それから、ゆっくりと頭を下げた。


「……承知しました」

「本当にわかっているのか?」

「……努力します」

「約束しろ」

「……はい。約束します」


鷲一郎は、ようやく手を下ろした。


「よし。明日からその装束を使え」

「はい」


夏芽は腕時計の箱と、畳まれた装束を丁寧に受け取った。

その表情はいつもどおり静かだった。

高価な品をもらった喜びを、あからさまに表すことはない。

だが、粗末に扱うつもりもなかった。

自分のために用意されたものを、必要ないと言って返す理由はない。


仕事を果たす。

それが彼女なりの礼だった。

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