第一章 第九話
――薬心寺には、誰にも知られてはいけない秘密がある。
「な、なんじゃ、ここは……」
焦げた蜜と薬品が混ざったような、胸焼けを誘う臭気が充満する空間。どこか清潔さがある薬品臭さとはまた違う、鼻にねっとりとまとわりついてくる臭いに、思わず心門は袂を鼻と口に当てた。
異様だったのは臭いのみならず、地下で光が差さないその密室では、天井からいくつもの行燈が吊るされており、寺のどこの場所よりも異常に室内を明るくする工夫が為されていた。その行燈に日照が順々に火を灯して行き、灯火に誘われるように、一行は彼の後ろをついて回った。まるでこれから宝物館でも見物するよう。差し詰め展示物は、この室内に散らかっているもの達と言ったところか。積み重ねられた本、天秤、薬研、乳鉢……それらが行燈の光によって次々と照らされ、秘密裏に何かを研究していることは一目瞭然だった。
壁の一角に置かれた大きな薬箪笥、その傍らに箱詰めされた薄桃色の花、散らばった黒褐色の丸薬、使用済みの何本もの煙管……
「……え…?」
灯る明かりに誘われるがまま歩を進めるに連れ、見た者の顔がぎこちなく歪んでいく。出荷前と思われる木箱の中にぎっしりと敷き詰められている薬包紙の小包、明らかに増えていく小蝿の数、奥に行けば行くほど強まる尿臭……そして、腐り壊れた格子牢。
目の前の光景に、心門は、言葉を失った。厠もない格子牢の中の座敷は、人が二人入るのがやっとのスペース。それなのに、黒く変色した畳の跡からは、少なくとも四人以上、大小様々な人染みがあった。乾燥し切った糞尿、壁の手形、格子に齧り付いた歯形……そこに人の姿が見えなくとも、ここに入れられていた人間がどんな生活を強いられていたいのか、聞かずとも想像は容易だった。
格子牢の入り口は水で湿った跡があり、木が腐り落ちている様子から、先程の鏡人達はここに監禁されていた者に間違いないだろう。
「住職。この、場所は……?」
重圧を孕んだ声で、九羅は住職に聞く。
本堂を出て、渡り廊下を渡り、日照の部屋へ。何もない空っぽな居室に、唯一置かれた仏壇。その仏壇に鎮座する御本尊の腕を二度捻ると現れる、寺の地下へと続く隠し通路。長い長い階段を一直線に降りて行った先に、この場所はあった。
「この場所は、製造場……いわば、新種の薬物の化生の地。そして……」
日照はさらに先に進み、最後の行燈に明かりを灯す。
その灯火によって現れたのは、先程の格子牢よりも一際大きく、重圧な鉄格子。ここが、この異空間の最奥の場所。
空っぽそうに見える中の様子を、心門が恐る恐る覗いてみると、闇の中で僅かに蠢く何者かの影が。
「楓」
優しく、包み込むような声で、中にいる者の名を住職が呼ぶ。
その声に反応し、布団と思しき布の塊から、ぬるりと痩せ細った皺々の腕が出てきた。肌は土色、伸び切った爪は黒ずんでいる。ズルリと床を這うように、ゆっくりゆっくりと亀が甲羅から顔を覗かせるように、姿を現したのは、一人の老婆。
白髪交じりのボサボサ頭で隠れているため顔はよく見えないが、簀垂れた髪の隙間から見える姿は、完全に人の尊厳を失っていた。擦り切れた木綿の着物、肌は乾燥し皺だらけ、垂れ流し状態の鼻水は口の中に入り、口からは涎が常に滴っている。閉じられることのない口の中は、ほとんど歯がなく、一匹の小蝿が口腔内を這い回っている。
「ご、はん……のむ……のう」
呂律の回っていない状態で、日照にご飯を訴えてくるその姿は、まるで子どものよう。
見るに耐えないその有様に、妙順はすぐに老婆から目を逸らし、心門も牢の中にいると頭ではわかっていながら、こちらに手を伸ばそうと近づく老婆から、咄嗟に一歩退いた。
「彼女は、拙僧の妹に当る女性。名を、楓と言う」
「彼女が、この寺の秘密の一部……ですね?」
日照は、心を落ち着かせるように一呼吸置いた後に一言「左様」……その事実を認めた。
「呼人は——貴方か」
俯く日照は、静々と流した一筋の涙と共に「……どうしても、断ち切れぬ想いがあった」と、胸の内を零した。
「人の道を踏み外す行為と知りながら……斯様な身の丈でありながら、それでも禁忌を犯すことに、なんの恐れも感じぬほど、私に迷いはなかった」
「鏡人をあるべき場所へ帰す。そのために——」
ガチャン!と激しく遊環の音を立てて、九羅は錫杖を地に固定させた。
そして、自らの右袖を滑り上げて腕を前に伸ばし、見せつけるように差し出したその赤肌には、顔の白化粧と似たような、白い刺青が腕全体に広がっていた。
腕全体には流麗たる気と風の渦が刻まれ、手首には、その気に乗じて鬣を靡かせる獅子の横顔が。躍動感溢れるその刺青は今にも動き出しそうなほど……
「ちゅうより、その刺青、本当に動きよるじゃないか!」
ただの刺青のはずのその模様は、実際に九羅の腕の中で、蠢いていた。鬣は実際に風に靡くように僅かに上下に動き、気は川の水のように腕全体に流れ、瞬きの間に模様がコロコロ変わり、腕から淡い霞が立ち昇っているよう。
「日照住職。貴方には、話してもらわねばなりません」
眠れる九羅の腕の中にある獅子の瞳に、金色の光がギロリと宿る。すると生を宿した獅子の刺青は、白く冷徹な光を放ちながら、霞がかった半透明な姿で現世に降り立った。神秘的なそれは、空を舞うよう優雅に日照の元へ駆け寄る。
この獅子に食われるのかと覚悟を決めたような面持ちで、日照は自身の前で立ち止まるその獅子の金色の瞳を、まっすぐ見つめた。しかし、獅子は興味がなさそうにスッと日照から目を逸らすと、彼の背後に回り、獅子の形を崩して霞に変わる。
霧散した霞の冷ややかな空気を漂わせ、日照を誘い振り向かせると、そこには、彼の体よりも遥か大きな神鏡が佇んでいた。
形は神鏡のはずなのに、人の全身を容易に映してしまうほどの大きさの威圧からなのか、それとも奇術によって現れたものからなのか、その鏡はどこか禍々しい雰囲気を放ち、近づき難い……いや、近づいてはいけない、底知れぬ違和感と危うさがあった。
「呼人になることを自ら選び、禁忌を犯してまでも自ら背負うと決めた業について——お聞かせ、ください」




