第一章 第十話
――73年前。
拙僧は、薬心寺総代の次子として生まれた。
「おお……! ついに、生まれたか」
遠くから聞こえてくる産声に、父の日向は安心感と喜びが混ざったような声を上げながら、すぐさま母と子が待つお産の間に、足早に向かった。
初めての我が子に会える喜びを胸に、障子に手を掛けたその時だった。
——あ“ぁあ、あ“ぁあ……!
障子を開けようとした手を、咄嗟に憚った。
お産の間から聞こえてきた産声は二つ。中から聞こえてくる、焦るような産婆の声から、先ほどの産声の声主ではないことは明らかだった。
「じゅ、住職様……!」
住職の顔を見るなり、産婆の顔は血の気が引いてくように青褪めた。
母の腕には、今し方生まれたばかりの二人の赤子…… 双子が生まれたら、どちらか一人を間引きしなければいけない。産婆は、両方の赤子の命を救おうと、父に知られる前に、母にどちらか一人を引き取ると話を持ちかけていた真っ只中だった。
だが、産婆が懸念していた事態は、杞憂に終わった。
双子を見た父は産婆の前で、嬉しくとも苦渋とも取れぬ顔で一言「どちらも育てよう」と告げ、部屋を後にした。
だが、後から聞いた話、双子が生まれたこの時の父の心根は——理性を忘れてしまいたくなるほど大層喜んでいた。
理由は、明白だった。この製造場を続けるには、人手が必要だったからだ。それも——秘密を絶対に漏らさない人員が。
私の存在は、両親にとって好都合だった。双子の兄の控えとして、従者として、労働力として動けるように、ある意味、兄と同じくらい大切には育てられた。
戸籍もなく、人前に出ることを禁じられ、私はこの世に“存在しない人間“として、日陰の中で育てられたが……不自由を感じたことはなかった。
山中にある寺の周りには、外への興味を唆るものなど何もなく、むしろ広い境内が遊び場だった。私が暇を弄ばないように、両親は玩具を欲しいだけ買い与えてくれ、勉学などの面倒も母が見てくれていた。
「フン! 邪魔だ、日陰者が」
兄とは性格が合わず大層嫌われていたが、遊び相手には、3歳下の楓がいた。
「兄様〜!」
楓と私は、常に一緒にいた。私のように存在を秘匿されていたわけではなかったが、楓は私に懐いてくれて、ずっと後ろをついて回って来た。
他人を可愛がるよりも可愛がられたい性分だった兄は、楓には一切興味を示さなかった。だが私は、母の腕に抱かれた生まれたてほやほやの顔を見た時から、羊水の独特なニオイを嗅いだ時から、差し出した指を握るその温もりを感じた時から……目が離せなかった。
赤子のうちは積極的に母と共に世話をして、歩けるようになれば一緒に散歩して、会話ができるようになれば二人で一緒に遊ぶようになった。そうやって、一緒の時間を過ごすうちに、楓も、私に随分懐いてくれるようになった。
「兄様、蹴鞠勝負を致しましょう!」
「運動で私に勝ったことがないくせに勝負を挑むとは」
「傾城を覆すための大きな一歩です!」
本当に楓と一緒にいる時間は、何気ない一日でさえ、私にとっては眩しかった。
「また兄様に負けました〜」
「だから言っただろう?」
素直で勝ち気で、鈴の音を転がすようによく笑う。すぐに抱きついて、甘えてくるその温かさが心地よくて、こんな時間がずっと続いて欲しいと、何度願ったか。
「兄様、見てください。楓の地紋が立派な振袖でしょ?」
「樺色がとてもよく映えている。嫁入り支度かい?」
「はい! お父様が買ってくださったんです」
楓が17になった年、彼女は隣町にある良家との縁談が決まり、嫁に出ることになった。
昨日まで「兄様兄様」となんでも私の後ろを突いて回る幼子だったのに、いつの間にか、嫁の貰い手ができるほどの立派な女性に成長していた。
「改めて、結婚おめでとう、楓」
嬉しくも、もう一緒にはいられない寂しい複雑な感情に涙を堪えながら、私は、彼女の嫁入りを心から祝した。
「ふふ。兄様、どうかお元気で……」
白い花嫁姿に輝く琥珀の瞳を潤ませながら、こちらを振り向き手を振る楓の姿を最後に焼き付け……濃くも刹那の、楓と兄妹として入られた日々は、そこで終わりを迎えた。
——そして月日は経ち、兄が35のとき、流行病で両親が急逝した。
些か時は早過ぎたが、兄は若くしてこの薬心寺の住職になることとなった。兄にとっては、ずっと待ち焦がれた瞬間――そして、私が生まれた使命を果たす時が来た。
我が家系は、この絹山村の村長の分家。当時、働き手が少なく、村では年貢を納めることができず、代わりの税を納める為に村長の親族が建立したのが、この薬心寺だった。
寺は表向きの姿。ここで調合した麻薬を他所に卸し、荒稼ぎした金が年貢の資金源となり、長年この村を大きく支えた。威光を保つため、薬の資材はすべて本家が調達していたものの、それ以外はすべて我が分家に一任されていた。
住職になった兄が真っ先に目に付けたのは、新薬の研究と開発。本家に依存せず薬を調合できるようになれば、事実上、この村の実権を握ることができるからだった。
兄は研究熱心だった。そして、そちらの才には、大層恵まれていた。元来の薬を改良し、より少量で依存性を高めさせる新薬を研究し、その成果を出した。密かに江戸でも流通が始まるほどの評判に、兄はさらに研究にのめり込んで行った。
「おい。また一人、使えなくなった。補充しておけ」
実験を繰り返し、壊れていく検体の数は年々増えた。
檀家は検体にはできない。身寄りが掴みにくい外の人間は、そう易々とやってくるわけではない。だが、兄の命令は絶対。時に宥め、時に打擲を甘んじ時間を稼ぎながら、私は兄の要求を必死に叶えてきた。
「お前は一体、何をやっていた! この役立たず!!」
だが、いつまでも同じ誤魔化しは効かない。
激しさを増す研究に合わせて、徐々に検体を用意できなくなってきた時だった。
「ごめんくださいませ……」
痩身の老翁が、一晩止めて欲しいと寺を訪れた。その老人は先立って奥方を亡くし、子もおらず、長年独り身でこの村で暮らしていた男。客が来れば、いつもなら羽虫を払いのけるような邪険な表情を向ける兄が、なぜかこの時ばかりは、嬉しそうに笑い、その老爺の訪問をいたく歓迎した。
初めてと言ってもいいほど、外面よく振る舞う兄を見て、私は彼が何を考えているのか、すぐに頭に浮かんだ。
「あれを地下に運んでおけ」
「しかし! 彼はこの寺の檀……」
すると突然、火花が散ったようにチカチカと光が爆ぜると、視界がグルリと周り、気づけば私は床を拝んでいた。そして、倒れた私の体を追うように、後からじわじわ感じてくる、顎下の激しい痛みに気づき、何が起きたのかようやっと状況を理解した。
「忌子の分際で、私に口答えするつもりか!」
「し、しかし住職様。流石に檀家の人間を検体にするには、危険が……」
さすがにと止めようとした妙弦も、鬼のような目で睨み据えられ、口を噤んでしまった。
「……なら、お前が代われ」
その一言に、さぞ妙弦の心臓は飛び跳ねたことだろう。額に多量の汗を滲ませ、呼吸を荒くしながら「いえ……」と決死の抵抗を絞り出した。
もう、誰も兄は止められない。
20年前に起きたこの出来事を皮切りに、この寺からは人が時折、忽然と消えるようになった。




