第一章 第十一話
「おーい……おーい…………おーい」
「く、くしゅりぃ……チョーダァい……」
見境を失った我々は、ついに、村人にも手を出すようになった。
身寄りなく、いなくなっても誤魔化しが効く最低条件の人間を選別して、いつバレてしまうのではないかと肝を冷やしながら、同じことを繰り返した。
やがて「人がいなくなる」という噂が立ち、それを間に受けた奉行所が検閲に来たときは、どうなってしまうのかと胸を突かれる思いだった。……いや、いっそのこと、もう全てバレてしまって欲しいと思うほどに、私の心は摩耗していた。
抵抗する人間を地下に押し込む時の力、薬品と腐敗の鼻を突く臭い、か細く囁くように薬を求め続ける人の声、死後硬直した人間の体の重さ、埋める時の土の臭い……慣れることのないその全てに、嫌気がさした。これが私が果たすべき使命なのだと、私が生まれ生かされた意義なのだと重々承知はしていても、受け入れ難いものだった。
だが、検閲に来た役人に、兄が袖の下を渡す場面を目の当たりにして、「この世は、誰も助けてはくれない」のだと、絶望を叩きつけられた気分に陥った。
——そして、私の運命を変える出来事が近づく。
「失礼致します」
雨が激しく降り注ぐある夏の日の夜、私は兄に呼ばれた。
「チッ」
自分で呼び出しておきながら、私の顔を見るなり、兄は煩わしそうに舌打ちした。同じ顔でも……同じ顔だからなのか、兄が私に睨み顔以外向けることは一度たりともなかった。
薬研で草をすり潰しながら、背中越しに兄は言った。
「検体が一人増えた」
「は?」
「最近は、噂のせいで客もめっきり減った。なるべく長く持たせるように」
「変だ」と思った。兄が私に内緒で、勝手に検体を増やすことなんて、これまで一度もなかったからだ。検体の確保は私の仕事。いくら研究で切羽詰まったとて、自分の手を煩わせてまで検体を増やすことなど絶対にしなかった。
……とてつもなく、嫌な予感がした。全身の身の毛がよだち、鳥肌が立った。手に汗滲ませ、固唾を飲みながら、私は兄に聞いた。
「その検体は……いま、どこに?」
「もう中に入れた」
「中に入れた」言われるがまま鉄格子の中を覗いた。無気力に床に寝そべる他の検体の中に、一人だけ小綺麗な木綿の着物に身を包んだ女性が、気怠げに壁にもたれかかっていた。
顔がよく見えぬと恐る恐る牢に近づいて、中を手燭で照らしてみる。グラグラと壁に頭を擦りつけるように揺らしながら、涎を垂らし、鼻水を垂らし、ボーっと空を眺める中年の女性。揺らぐ炎が、その琥珀色の瞳を照らした時、私の喉奥で何かが渦巻いた。
「おえッ!!!!」
なぜ……どうして……。
思い浮かぶ言葉はそればかり。何も、考えられなかった。考えたくなかった。
息苦しさに涙を滲ませながら、私は兄を見やった。
「旦那の暴力が恐ろしいと逃げ戻ってきおった。子も孕めぬ女など、もはや存在する価値はあるまい。……だが、身寄りのない、中年女の検体は貴重だ。そう簡単には死なせるなよ」
彼女は、検体じゃない。楓は……血の繋がった、我々の妹じゃないか。家族だろ?
――それなのに、どうしてお前は、そんな非道な発想を易々とやってのけられる?
「はあ……はぁ……貴様! この私に何をする」
気付けば、薬研を握っていた。
気付けば、しきりに硬いものを殴っていた。
気付けば、兄の頭からドス黒い血が流れていた。
気付けば、兄はよろめきながら逃げていた。
「ちょ、待て! 分かった、分かったから」
――気付けば、私はそれを追っていた。
腰を抜かしながら地上に逃げ果せる兄の背中を見つめ、私は、ゆっくりと後を追いかけた。
あれだけ横柄で、傲慢で、無慈悲に振る舞っていた兄が、私に怯え、肩を震わし背中を小さくする姿は、実に新鮮だった。双子なのに、私の方が力が上だったことをこの時初めて知った。
あとでどうなるか、なんて考えなかった。折檻なんてものじゃ済まない。下手すれば私はこの後、兄に殺されるかもしれない。
……それでも私は、今なら、なんでもできる気がした。
「かえで……検た……の、悪かっ……!」
法衣を泥で汚し、全身雨に濡れ、尻餅をつきながら命乞いをする兄の姿は、本当に無様だった。せっかくの命乞いも、雨音でほとんど掻き消されるその惨めさたるや、笑いも乾いてしまうほどの滑稽ぶり。
「痛い痛い痛い!!!!」
そのまま兄の上に馬乗りになって、私はわざと殴った頭部を地に押し付け、痛みを与えた。
「楓は、私達の妹です。何故、躊躇いもなくあの子に薬物などを食わせられたのですか」
至って冷静に聞いたつもり……だが、兄を押さえつける手には、自ずと力が増してしまう。
「分かった! 楓を元に戻してやる、げ、解毒薬があるんだ!」
「戻す?」
嘘か本当か分からぬ兄の話に、私は訝しげながらも耳を傾けてしまった。
「そうだ、解毒薬だ! 楓に使ったのは今研究中の新薬で、検問されても使用者が誤魔化せるよう、解毒薬と一組にして下ろす予定だった!」
もしそれが本当ならば、妹はまだ助かるかもしれない。
楓を、元の姿に戻したい。
ただその一心で、私は兄に聞いた。
「……その解毒薬は、どこに?」
私が尋ねたのをいいことに、私の手の隙間から、兄の口角がニヤリと大きく上がったのが見えた。
「……ハッ、誰が教えるか! あいつを助けたければ、今すぐそこを退け!! 私がいなければ何もできない木偶のクセに、調子に乗りおって!!」
「解毒薬は、どこに?」
「そんなに欲しければ、自分で作ってみろ。作れるものならな!」
調合書も、場所も、すべては兄の記憶の中。
私になす術はないと分かった兄は、いつもの調子を取り戻してしまった。
「ああ……やはり、ダメか」
「へ?」
――――ごぽぽぽぽ……
気付けば、私は兄の顔を水溜りに埋めていた。兄はきっと、激しく抵抗したのだろう。息絶えた後、私の両手には数多の引っかき傷がついていて、一部は皮膚が抉れていた。……なんにも、覚えちゃいないが。
殺してしまったという罪悪感は、不思議とあまり湧かなかった。遺体の処理だって手慣れたもの。むしろ死後硬直が始まる前の身体だった分、土の中に隠しやすくいつもより楽だとさえ感じた。
兄の遺体を埋めた後、私は楓の元へ戻った。
今ならまだ間に合う。楓の体に薬物を入れてからは、まだそんなに時間も経っていないはず。解毒薬を入れられれば、今ならまだ……そう期待して、私は製造場のあらゆる場所を探し解毒薬を求めたが、そんなものは見つからなかった。
「痛い……! 痛い!」
「楓!」
「薬……あのお薬頂戴!! 体中が、痛い……! 呼吸……苦しい!」
解毒薬は愚か、楓に使用された新薬はこれまでの何倍も依存性を強めたもの。効能が切れれば全身を針で刺されるような激しい痛みや嘔吐などの身体症状が現れ、その薬物でしか痛みを抑制できない仕組み。
つまり、一度使用したが最後。楓は、死ぬまで薬を求め続ける身体になってしまった。
「ほらこれ!」
解毒薬どころか、自分の手で妹に薬物を与えた。
痛みに歪んだ表情から一変し、薬を服用した途端に楓は安堵の表情を浮かべ、意味もなくヘラヘラと笑う。
そんな彼女の様子を見て、ここで私は初めて、兄を殺してしまったことを、激しく後悔した。
妹のためにと兄を殺し、その兄を殺した手で妹に薬物を与えた。
自分が行った所業の気持ち悪さに、また私は吐いてしまった。後悔も、怒りも、哀しみも、業も、全部全部、私の中の汚い混沌を吐き出して、楽になれたらどれだけいいかと、激しく嘆いた。
するとその時、ひんやりと冷たい感触の何かが、私の頬に当たった。
「え?」
見ると、鉄格子越しに楓が、私の頬に流れる涙を優しく掬った。
「楓……」
「坊や、泣くほど嬉しいことがあったの?」
いつものように、鈴の音を転がすような声で楓は笑った。
狂っている。嬉しいことなど一つもありはしない。お前もそうだろう?
……それなのに、そうやって昔ながらに無邪気に笑えるのは、薬が見せている幻覚なのだろうか。
「私とも遊ぼ。蹴鞠勝負なんてどう?」
「お前……私に勝ったことなど、ないだろう?」
「じゃあ、傾城を覆してみせましょう」
昔に、もう一度戻れたら……そんな夢幻の思いを馳せる楓とのやりとりに、私は、覚悟を決めた。
私と兄は、瓜二つの双子。兄と同じく、この寺に生まれ、この寺で育ち、教養を身に着けてきた。
身を清め、作務衣を脱ぎ、兄の部屋にある法衣を身に纏う。癖も、嗜好も、立ち振舞も……伊達に兄に仕えてきたわけではない。
「あの……住職様」
「なんだ」
朝の兄は、大抵機嫌が悪い。
妙弦相手なら、兄ならきっと、あからさまに態度に出して一応話は聞くはずだ。
「忍を見てはいませんか?」
「ああ……あいつなら、昨晩出て行った」
「で、出て行った!?」
目を見開いて仰天する妙弦に、うるさいと言わんばかりにギロリと睨みを返す。その凄みに、しまったと言わんばかりに妙弦は口を抑えた。
「も、申し訳ありません……し、しかしなぜ」
「妹を検体にしたのが気に食わんと、昨日一悶着あってな。煩わしかった故、そのまま外に放り出してやったわ」
「放り出したって……ですが!」
「なんだ。私に文句があるのか?」
ドスの効いた声で脅すと、それ以上妙弦は、口を開くことはなかった。
「案ずるな。外を知らぬあいつが出て行ったとて、何もできやしない。役に立たぬ愚かな忌子の代わりなど、いくらでも用意できる。分かったら、これ以上あいつの話はするな。さっさと仕事に戻れ」
「承知、致しました……」
――――……「その日から私は、この寺の住職 日照となった」




