第一章 第五話
弱々しくも、確かな音が聞こえた。
——トン、トン、トン……
本堂の唐戸に、一斉に皆の視線が移る。
「坊や……?」
泣き腫らした目で、千代乃が呟く。
返事はない。されどその代わりかのように、また先ほどと同じように、誰かが戸を叩く音が聞こえた。
「鈴太!」
よろけながら、千代乃は急いで駆け寄った。
――早く、我が子を抱きしめたい。
それなのに、すぐ目の前の距離がやけに遠くに感じて、両手を延ばしながら近づき、手探るようにして引手に手を掛ける。
そんな彼女の様子を、男達は皆、一心に見守っていた。
「鈴、た……」
残念ながら、戸の前に佇んでいたのは、雨でずぶ濡れとなった男性が一人。
「田宮さん……」
鈴太ではなかった。
期待叶わず、皆視線を落とし、心門は頭を抱えた。
分かってはいつつも、千代乃はその場に膝から崩れ落ちて、両目を押さえながら再び涙を流し始めた。
「飛脚。尼僧は? 一緒じゃなかったのか?」
心門が聞いた。だが、雨音で聞こえていないのか、返事がない。
「田宮さん、心門様が九羅さんがどこにいるか知らないかと」
清二が聞こえるように声を大にして、もう一度尋ねるが、やはり返事は返ってこない。
「田宮さん?」
稲光が逆光になって、表情が見えない。
しかし、どこか虚ろで、微動だにせず、ただ呆然と床一点を見つめて立ち尽くす彼の姿は、なにやらただならぬ雰囲気を漂わせていた。
「田宮さん、なにかあったんで」
恐る恐る様子を伺いながら、妙順が近付こうとしたその時だった。
ダン!!!
何も言わず、田宮が本堂の中に、黒い物体のようなものを無造作に放り投げてきた。
眼前に転がってきたそれの正体が目に入った瞬間、男達は、呼吸の仕方が分からなくなるほどに凍りついた。
「こ、れ……」
なにかぶよぶよとした、重さがありつつも柔らかい何かが床に叩きつけられるような、鈍い音……自分の視界横を掠めたその影に……千代乃はゆっくりと、本堂の中を振り向いた。
「――え」
床に転がっていたのは、血管が網目のように浮き上がる、人の形をした肉塊。
水浸しのそれは、鈴太よりも少し身体が太っていて、でも上背は子どもで、でも明らかに死んでいて、でも着ている服は鈴太と同じ物で……
「鈴……太?」
「飛脚!! 貴様!!!!」
脇差に手を掛け、心門が田宮を斬りかかろうとしたその瞬間
バン!!!!
ひとりでに本堂の唐戸が勢いよく閉まった。
向こう側には千代乃も一緒。急いで田宮を追いかけようと戸を開けようとするが、何故かピクリとも動かない。
「おい! お前ら、ぼっとしちょらんで手ぇ貸せ!!」
心門の怒号に、住職がすぐに加勢に入った。妙弦も、立ちながら意識を飛ばしている妙順に一喝入れて我に返らせると、彼を連れ立って一緒に引手を引いた。
男4人が力を合わせても、なぜかピクリとも動かない。「商人!」と心門は清二にも協力を仰ぐが、転がる死体に腰を抜かし、まるで使い物にならず、思わず舌打ちをした。
「千代乃! 無事か!?」
戸を隔てて千代乃の無事を確認するが、彼女からの返答はない。田宮から逃げたかと、心門は戸に聞き耳を立てて向こう側の様子を伺う。
――ぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶくぶく
――ごぽぽぽぽ……
泡が湧き上がってくるような音に、体中の血が引いていく感覚を覚えた。
何が起きているのかは全く想像もつかない。だが、千代乃の悲鳴さえ上がらなことが逆に焦りとなって、「早く助けなければ」と頭でうるさいほどに警鐘が鳴り続ける。
すると、あれだけ微動だにしなかった唐戸が、今度は男達をあしらうかのように容易く開いた。体勢崩し、前に倒れ込もうとする心門を待ち構えていたかのように、雨露に濡れたその細身の腕が迫り来る。
視界の端には、全身ずぶ濡れ姿で項垂れている千代乃の姿が。見え得る白肌には血管が網目のように浮き上がり、水でふやけた指のように皮膚はぶよぶよにむくみ……鈴太と同じだった。
だが、心門が衝撃を受けたのは、千代乃の変わり果てた姿を目にしたからではない。
「おま、え……」
田宮の顔があるべき場所には、肌も目鼻も存在しない。ただ一枚の鏡が嵌め込まれたような顔。合わせ鏡の中を覗き込んだ時のように、同じ景色が幾重にも連なり、永遠に続く鏡像が黒い穴へと収束している。
覗き込むほどに、まるで、己までその闇へ引き込まれそうな……
「し、心門様!」
——逃げなければ。
頭では分かってはいるが、体が言うことを聞かない。それが目の前に化け物がいる恐怖からか、田宮の呪いなのか。
『カエセ』
顔を掴まれて、鏡像の闇から目を逸らせない。グン!と顔を近づけ、田宮は心門の視界を鏡の中の景色で満たす。その様子は、心門の精神を闇で蝕まんとするよう……
——儂、は、……どうやって、生きていた……?
「ヒュッ」
心門の呼吸音が乱れる。呼吸の仕方を忘れ、我を忘れ、視界が歪み、意識が歪む。何かを考えているのに、何も考えていないかのようで、自分の何もかもが分からなくなった……混沌の中で揉まれる感覚。
『かえせ』
恨みがましく何かを求める、誰かの声が聞こえた。
だが、今の心門は、その言葉を、ただの音として捉えることしかできない。その言葉の意味も、真意も、意図も、己のことすら分からなくなっている今の彼には————と、その時だった!
……チリン
重い金属音に、初めて、田宮は心門から顔を逸らした。
警戒した様子で、彼はすぐに音が鳴った方を振り向く。拘束が解かれ、途端に体の自由が戻り、夢現だった感覚が一気に現世に重く引き戻される。激しく咳き込み、呼吸ができるその息苦しさが、心門の意識を取り戻した。
「ゲホッ……な、なんだ」
田宮の視線の先にいたのは、錫杖片手に尼僧の格好をした誰か。
だが一つ、その見た目で異様だったのは、雪のような白肌とか、日によく焼けた小麦肌とか、そんなありきたりな表現には当てはまらない――赤みがかった肌。
「……いた」
その特徴的な声を聞いて、その赤肌の人物が、頭巾を剥いだ九羅なのだと、心門はすぐに気づいた。
「鏡を見るな!!」
狙いを定めて、田宮が九羅に魔の手を伸ばす。心門の決死の叫びとは裏腹に、彼女は薄ら笑った。
逃げようともせず悠長に構える彼女に、心門は舌打ちしながら、未だ統制の取れない体に鞭打って、田宮を追いかけようとした瞬間
——バキン!!
何かが、割れる音がした。それと共に人間ではない、聞くに耐え難いおどろおどろしい悲痛な叫びが、寺中に響き渡った。
「うお!」
叫びが止んだところで、塞いだ耳と目を、心門はゆっくり開けた。
目の前には、天を仰ぐようにして床に転がっている<田宮の骸>。鏡だった彼の顔は元に戻り、その眉間には、一本の釘が刺さっていた。
「ご無事、なご様子で」
九羅が歩を進めた瞬間、思わず心門は後ずさった。
「お前が、やったんか……?」
すっきりとした輪郭に、切れ長ながらも妖艶な目元……男とも女とも取れる中性的な顔立ち。
白肌によく映える紅のように、その赤い肌には白粉で化粧を施し、額には蓮華模様が。厚すぎない唇の隙間からは、鋭い犬歯が垣間見え、漆のような黒の艶髪は、後ろで一本に編まれている。
絵物語に出てくる天女……? 否。
御伽草子に出てくる赤鬼が、現世に舞い降りたような姿をしていた。




