第三章 第五話
――母が家を飛び出して二年、奉公先での年季が明けた。
私は次の奉公先が決まっていました。というより、旦那様から年季を延ばす申し出を受けましたが、当然断りました。一刻も早くこの店と……永吉と縁を切りたかった。
『少しばかりだが……』
店を出る時、旦那様からまとまった金子を渡された。女中が一年間働いて稼ぐほどの金額……子供の年季奉公の仕着せ金にしては、相場より遥かに高い。これが仕着せ金ではなく、永吉に関するすべての口止め料であることは、言われずともすぐに分かりました。
こうやって、愛する息子を旦那様達は守っているんだ……。あんな、人の皮を被った畜生でも、息子という血筋だけで守ってもらえるなんて。大金をもらえたことよりも、私にはそっちの方が何よりも羨ましく思えました。
——『はぁ……痛た』
新たに呉服屋で、女中として住み込みで働き始めさらに二年が経った時。
私が水汲みの仕事でぐっと伸びをしていると、いつもなんだかんだ理由をつけて声をかけてくれる手代の青年がいたんです。
『お小夜さん。ちょうど瓶水がなくなったんで、それ貰っていくわ』
『あ、ならすぐに』
『ついでなんで……構わんで下さい』
彼の名は凛太郎。店の中では、愛想よく活発な男衆の中では目立たない御方で、口数は少ないがそのさり気ない気配りに女性客から密かに人気がありました。
かく言う私も、彼のその気配り上手に惹かれていた一人でした。
『旦那が全然休ませてくんねぇから、ちょいとお小夜さん匿って』
時に油を売ったフリをして、私が密かに可愛がっていた野良猫に餌をやりに来たり
『お小夜さん、これやる。俺ぁ甘味は好まん』
餡蜜好きのくせに嘯いて、客からもらった西方の珍しい甘味をこっそり分けてくれたり
『奇遇だな、お小夜さん。俺も旦那に怒られて一発殴られちまった。一緒にやけ酒でもするべ』
ヘマをした私を仲間だと言って、一緒に愚痴を吐いてくれたりもしました。
その人は、ぶっきらぼうに見えるのに、今まで会ったどんな人よりも温かい優しさを持っていて、私が初めて敵意を感じなかった男性でした。
『今度、お小夜さんに見せたい桜の景色があるんだ。……良かったら、一緒に行かねぇかい?』
猫に餌をあげながら、背中越しでさり気なく自然に誘ったつもりだったのでしょうけど、耳も頬も空と同じ真っ赤な茜色に染まっていた彼の後姿を、私は今でも鮮明に覚えています。
恥ずかしげもなく、優しさのためなら平気で嘘をついて誤魔化すクセに、こういう肝心な時に限って器用になれない彼を、私は、愛おしいと思った。
『わがまま、言いたいんだが……俺と、夫婦になっちゃくんねぇか?』
一年後、私は、彼から縁談を申し入れられました。
すごく……本当に、すごく迷いました。私には、気持ちだけではどうにもできないことが多過ぎて……あの家に、好きな人を関わらせたくなかった。
でも、凛太郎さんは、私の家の事情をすべて知った上で、結婚しようと言ってくれたんです。彼自身も寺に引き取られた孤児で家族はいない。結婚すれば家の付き合いは私の好きなようにしてくれたらいいと、私の重荷にならないよう全てを委ねてくれたんです。
『結婚は家同士の結び付きなんて言われちゃいるが、俺は、惚れた女とただ生涯添い遂げたい。――なんもないこの身一つで、お前さんを……お小夜さんを幸せにしたい。ただそれだけのために、結婚する』
生まれて初めての、感覚でした。
ドキドキと心臓がうるさく高鳴って、苦しくて、それでいて身体が熱くて……"幸せ"とは、たまらなくなる感覚になることなのだと、初めて知りました。
――私は、幸せでした。
弟もすでに奉公に出ていたということもあり、凛太郎さんとの結婚を機に、私は、実家との関係を切りました。
お金をせびられないよう、「孤児の人と結婚する」とわざと醜聞が悪い言い方で結婚することだけを伝え、家を出ました。その甲斐あってか、父が私達を探すことは、しませんでした。
それから三年――私達夫婦の間に、可愛い女の子を授かりました。
名前は悠。とてもよく泣く子どもでした。
『悠、また泣いてるの?』
『泣き顔は小夜に似てる』
『なんですか、私がずっと泣いてたみたいな言い方して』
腕の中いっぱいに感じるあの子の体温、意味もなくあらぬ方向に伸ばされる小さな手、風にそよぐ木陰の下でもきらきらと輝く眼……
『かわいい……』
やわな頬を指先で突く度、意味も分からず笑う我が子を大好きな人と一緒に眺める。そのなんでもない時間が、何よりも好きでした。いつまでも、こんな日々がこれからずっと続く……当時の私は、本気で信じていました。――人にはそれぞれ、幸せでいられる時間が決められていることなど、すっかり忘れて。
思えば私は、この時に私の幸せな時間をすべて使い果たしてしまったんだと思います。
それは、娘が二歳になる冬の頃――
『残念ですが……御臨終です』
『凛、太郎さん……?』
愛する人が、突然この世を去った時――私に、再び地獄が待ち受けていたのです。
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「ほう……」
話の佳境に、九羅は目を細めながら、期待を滲ませた眼差しを向け、続きを聞き入った。




