第三章 第四話
――私の、物心ついた頃の一番最初の記憶は、茶碗と箸が床に散らばる音だった。
『テメェ、たったこれっぽっちでどうやって酒買えってんだ!!』
私の家はとても貧しく、巷では有名な一家でした。
『やぁね、またよ』
『怒鳴る元気があるなら、少しはこの臭いなんとかしてほしいもんだわ』
当時から一緒に暮らしていた父方祖父の影響で、家は塵芥だらけ、私は芥の中で育てられました。物を捨てることを激しく恐れた祖父は、昔から物を溜めることに執着し、そのせいでご近所からも毎日話の種にされていました。
挙げ句の果てには……
『身体を売る価値もなけりゃ、まともに稼げないこの穀潰し野郎が!!』
『アンタもう、勘弁して!!』
ろくに働きもしないのに、酒に溺れた父は、毎日のように母に手を上げて怒鳴り散らしていたんです。
祖父母はすでに心を病んでいて、父のことを止めてくれる人は、誰もいません。当時、まだ四つになったばかりだった私は、赤子の弟を抱きかかえて、火の粉が降りかからないよう、家の隅で息を殺し、嵐が過ぎ去るのを待つことしかできなかった。
"まとも"からは、遠くかけ離れた家族でした。
『ごめんね、小夜ちゃん。もう大丈夫だからね。いつもおっかあの代わりにぎんを守ってくれてありがとね』
嵐が過ぎ去った後、私はいつも色々な感情に押し潰されそうになっていました。
父の怒号に母が殴られる恐怖と、嵐が終わった安堵と、何もできない不甲斐なさと、母の優しい手が頭を撫でてくれる温かさと……。
今日こそ母が死んでしまうのではないか。そんな恐怖に怯えながら、毎日毎日祈って耳を塞ぎ弟を抱えて存在を消していた。そして、痣だらけで痛々しくも、生き残った母が痛みに耐えながら作る笑顔を見る度に、私は泣いていました。
――早く大人になりたい。
そう切に願うばかりでした。
早くこの家を出たい。母と弟と共にやり直したい。母を楽にさせてやりたい。
『小夜ちゃん、いつも手伝ってくれてありがとうね』
まだ幼子だというのに、私は少しでもできることを率先して手伝い、子どもながらに母を支えることに徹しました。進んで母に教えを請い、一つでもできることを増やしていきました。
そうして時は流れて、私が十一になった頃――ついに奉公に出られる年になったんです。
奉公先は、三つ上の幼馴染が跡取りを務める米屋。そこでの子守奉公でした。さらに幸運なことに、家が近所で、先方は昔からの馴染みで私の家の実情を鑑みて、特別に通い奉公を許してもらえることに。
日々弟の面倒を見ていた私にとって、子守は朝飯前。その他にも礼儀や家事なども学びながら、二年年季の奉公を真面目に努め上げようと、私は意気込んでいました。
『お小夜、息災か』
『あ……永吉様』
ただ一つ、少し気掛かりなことはありました。
それは、私の三つ上の幼馴染――奉公先の一人息子 永吉の存在でした。
『ほら、もうすぐ八つ時。金平糖をくれてやろう』
『あ、ありがとうございます。しかし』
『その代わり――ちょいとばかり、厠に一緒に付いてきてくれないか?』
難産の末に生まれた彼は、商家の跡取り息子として、それはそれは旦那様や奥様に大事に育てられていました。
永吉が欲しいとねだればすぐ彼の手に。いらぬと言えばすぐ捨てる。生まれながらに周囲の大人が言いなりになっているのが当たり前の光景だった彼は、金や物を使って人を操作しようとする節があり、幼馴染という間柄でありながら、私は正直苦手でした。
力士のような体型で、ふんふんと常に荒い息を立てていて、いつも酸っぱい汗の臭いが漂う度に、私は身を縮ませて彼の目に留まらないように気配をできる限り消していました。
彼にだけは、絶対に角を立たせてはいけない。こんな好条件の奉公先を、失うわけには行きませんでしたから。じっと、穏便に過ごすしか方法はなかったんです。
だから――
『痛くない、痛くないよ小夜』
『ッ! ふん"…!』
『声出さないよ小夜。痛くない、気持ちいね』
――――いたい、くさい、きもちわるい。
それでも、何をされても耐えるしかありませんでした。どれだけ上手く躱しても、一度"欲しい"とねだれば、すべてはすぐ彼の手に。
『弟の方が、締りはいいのかな?』
『永吉……さま、それ、は……』
『すぐ抜こうとしないよ、小夜』
『……は……いッ』
そうやって人の弱みをチラつかせて、他人を服従させ
『ほら。頑張ったご褒美だよ』
上手く服従ができたら、たっぷりと報酬を与える。
奉公という名の、永吉専属の性奴隷。他の奉公人も、男女厭わず私と同じことをされていました。ですが、誰も永吉に逆らうことなどできない。一度、被害に遭った奉公人の親が押し掛けて来たこともありましたが、旦那様と奥様は頭を下げてお金で穏便に済ませました。中には、被害を遭ったことを口外しない代わりに、年季が明ける時に旦那様方にお金をせびる強かな子も出てきて……。
私は、いずれの選択もせずに、苦痛に耐え忍びながらただ年季が明ける日を待ちました。一度にたくさんのお金をもらっても、すべて父の酒代に消えるだけでしたから。……本当に、無駄な消費だったと思います。
『おかえり……あれ小夜、随分疲れてるじゃない』
『今日は、子どもたちが元気だったから』
日々のご奉仕に心身共に削られながら、家では母に何も悟られないよう気丈に振る舞っていました。とは言え、徐々に疲弊していく娘の顔を見て、母親なりにただの奉公疲れではないことは気づいていたんだと思います。実際、ある時ふと久しぶりに自分の顔を鏡で見た時、自覚できるくらいには、目の下のクマが酷かったですから。
――そんな折の出来事でした。
『もうやめてぇえええぇえええ!!!!』
これまでにないほどの悲痛な叫びを上げたのを最後に、母が、家に帰ってこなくなったんです。
よろめきながら玄関戸を突き破る勢いで飛び出し、極限状態の瞳に涙を潤ませ、真っ赤に染め上がった鼻を手で押さえながら一目散に逃げ出した母の決死の横顔――――それが、私が見た母の最後の姿でした。




