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鏡人ーカガミビトー  作者: みかん坊や
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第三章 第三話


 ――ひどい、臭いだ……


 それは、失っていた意識が徐々に浮上する中で、九羅が真っ先に感じたことだった。頭部全体にズキズキと痛みがあるが、これは別に問題ではない。鼻を刺すような我慢ならない臭気に意識を呼び起こされ、未だ朧気な頭のまま、手探りで周囲の様子を窺う。

 瞼は閉じたままなのに、明るさを感じる。誰かが蝋燭の灯火を点け、近くに置いているらしい。顔周りは先程よりも涼しく、頬には直接何かが広く当たっていることから、頭巾は外されてしまったようだ。先程よりも臭いがキツく感じたのはそのせいか。

 それに、左腕が痺れて、態勢を変えようにも身体の自由が効かない。身体の感覚を頼りに探ってみると、後ろで両手は縛られている。頬に当たっているのは畳らしい。どうやら身体は横向きに寝かされているようだ。持っていた錫杖も、もちろん手元にはない。捨てられていなければ良いのだが……。そんな冗談めいたことを考えながら、うっかり綻びそうになる口元を誤魔化すように、九羅は薄く目を開けた。


「ん……」


 置かれた行燈が思っていたよりも明るく、一瞬また力んで目を閉じる。やがて光に慣れてきたところで、徐々に瞼を開けた。未だ視界はぼやけたままだが、見える物の輪郭と動きから、行燈を挟んだすぐ目の前で誰かが針仕事をしている情景が読み取れた。


「あら。起きました?」


 聞き覚えのある女の声が呼びかけ、作業をしていた手を止めてこちらの顔を覗く。


「まったく驚きましたよ。まさかこの家に入り込もうとする人がいたなんて」


 知らない人間が勝手に入り込んだというのに、女はくすくすと面白がりながら、先程まで繕っていたであろう着物と針を呑気に裁縫箱に仕舞い始めた。うら若き女性が不法侵入者を前にして怯えや動揺すら見せないどころか、気配を消して背後から襲撃し、剰え捕えてしまうとは。尋常ならざる出来事であろうに、その後も何ら変わらず侵入者の寝顔を見ながら針仕事ができるのは、豪胆故か恐れ知らずか。

 女は九羅の顔元に手を伸ばし、自然な手つきで彼女の垂れた前髪を指先で払い、まじまじとその面を眺めた。


「貴方、日中店に葛餅を食べていたお客さんですよね。どうしてこの家に?」


 真新しいものを見た時の子どもの好奇心と変わらない、どこか楽しんでいるような口振りで女は尋ねる。

 

「……貴殿の方こそ、不審者を奉行所に突き出さなくて良いのですか? ――お小夜殿」


 九羅の挑発に、小夜はえ、と驚きの声を溢した。だがその反応は、九羅が期待していた意図とは少し異なるもので


「気のせいかと思っていたけど、声、低いのね。女の人かと思っていたけど、違うのかしら?」

「よく言われます」

「息苦しいだろうと思って頭巾を外したら肌も赤いし……そもそも人間ですか? 妖怪の生まれ変わりとかでなくて?」


 純粋に尋ねる小夜に、九羅はフッと笑みを浮かべながら「人間、ですよ」とはっきりと答えるも、俄に信じ難いと言わんばかりに、小夜は眉を寄せてじっと疑いの目を向け続けた。


「普(・)通(・)の(・)人(・)なら、こんな芥溜に自ら足を踏み入れる人なんていません。もう一度聞きます。なぜ、この家に入ったのですか?」

「鏡人の気配が、したもので」

「かがみびと?」

「そこの、椅子に腰掛けている男のことです」


 僅かに顔を上げて指し示した途端、コロコロと表情豊かだった小夜の顔から、まるで表情が抜け落ちたように無に変わった。

 

「私の勤めは、鏡人をあるべき場所に還すこと。そのために貴方には、お聞きしたいことが山程と……」


 閉口した小夜の唇に、きゅっと力が入る。彼女の目は揺らぐことなく、変わらず九羅を捉えているが、明らかに九羅へ向ける目的が変わっていた。

 好奇心旺盛に満ちどこか無垢さがあったその眼差しは、まるで背けていた現実を突きつけられたときのような、観念したような冷たい眼差しとなっていた。


 

 ——「かわ……いい……」


 

 その時、低く、それでいて細く掠れた声が、不気味に何かを呟いた。

 声の主は、小夜でも、もちろん九羅でもない。だが小夜はそれが誰か分かっているらしく、その呟きになんの反応も示さない。対して九羅は、自然と声のした方へ顔を向けた。

 視線の先にあったのは、椅子に括られた鏡人。

 身を乗り出して、縛られている体を椅子ごと跳ねさせながら、今にも九羅に食ってかかるほどの勢いで、ガタガタとうるさく動き回っている。


「こッち……コっち」

 

 ニタリと卑しく嗤って口元を濡らしながら、鏡人は瞬き一つすることなくその白い鱗目で九羅だけを凝視し続ける。「かわいい」「こっちにおいで」その言葉を繰り返し、鏡人は彼女をしつこく誘う。

 だが、九羅が気になったのは鏡人の——体。

 暗く、異臭が充満する部屋では気づくことができなかったこと。行燈が照らされ、初めて九羅は鏡人の体に刺し傷があることを知った。それも、腹部の煤竹色が広範囲に変色し、流血でカピカピに布が乾き、ビリビリに割かれている状態から、傷は一つや二つでない。

 黙する小夜に再び顔を戻し、九羅は言う。

 

「こ(・)れ(・)は、一体……誰なのですか?」


 小夜の顔が、やや俯く。だが、九羅は追及を止めない。 


「彼は、店で貴方が話していた、"祖父"ではないのでしょう? ——この依代は、誰だ」


 すると小夜は、小さく溜息を吐き、ふっと肩の力を緩ませた。そして少しの沈黙の末、小夜はボロ布を片手に徐ろに立ち上がり、鏡人の方へと近づく。

 ガタガタ忙しなく動き回るそれを手慣れたように、股の間に膝を入れて椅子を固定させると、ボロ布を鏡人の目元に巻き付けて視界を遮った。すると何も刺激が入らなくなった鏡人は途端に落ち着きを取り戻し、静かにまた部屋の隅で佇んだ。


「鏡人の扱いに、随分と慣れていらっしゃるようで……」

「人様に、迷惑は掛けられませんから」

「それは、どういう……?」


 赤切れ塗れのボロボロの手で、小夜は静かに部屋の奥を指差した。部屋の奥というのは、鏡人が座らされている格子窓の反対側の壁際——横たわっている九羅の頭側の方。

 差された先を見上げてみる。そこにあるのは、変色し、長年天日干しされていないであろうその布団は、不自然に盛り上がっていた。

 まさか……。咄嗟に嫌な予感が頭をよぎり、九羅は鋭く目を見開く。今度、小夜はその指した布団の元へと歩み寄って、九羅の予感に答えを示す。

 豪快に掛布を捲って中から出てきたのは、干乾びて無数の蛆にまみれた木乃伊化した老爺の死体。


「私の、祖父です」


 背中越しに、小夜はその人物が誰なのかを答えた。

 「なぜ」その言葉をついた途端、小夜は繕った笑みで振り向いて「知りたいですか?」と、祖父の遺体を背に、両膝をついて九羅の前に端座する。


「この家で起きたことが知りたければ、私の話をすべて聞いて下さいますか? 私の――作り話のような、本当の話を」


 その姿勢は最早、九羅の意向など聞く気はなく、そ(・)の(・)時(・)を待ち構えているよう。

 とはいえ、話す気となっている呼人を無下にする気など毛頭ない。話を聞かせて頂くにはと、九羅も自力で上体を起こし、対面に座す。

 すると、一体何をどうしたのか。小夜が一度瞬いたその刹那、九羅は縛られていたその縄をはらりと意図も簡単に解いてしまった。

 どうやって……。動揺して自身を見る小夜の目が揺れ動くのを見て、九羅は口角を少し上げると、顔の横に手を添え、指先をひらりと動かして何かを誘った。すると、倒れる間際に構え床に散らばった釘の一本がヒュルッと九羅の手元に飛んで来た。そうして持った釘をバランス遊戯のように指先に立たせて遊ばせて見せた。


「話の膳立てこそ、我が役目」


 そして右腕を前へ差し出し、袖を滑り上げ、白獅子の横顔が彫られた動く面妖な彫物から、照魔鏡を顕現させ、小夜の背後に控えさせた。


「貴殿の、禁忌を犯してまで果たさねばならぬ、その想いの在り処を、お教え頂きたく……存じます」


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