第三章 第六話
『残念ですが……御臨終です』
娘が二歳になる年の頃――凛太郎さんが流行り病で突然死して、私に再び地獄のような日々がやってきたのです。
哀しみに明け暮れた先に待っていたのは、どうすることもできない現実。
私は、実家に戻らざるを得なくなってしまったんです。そうでなければ、奉公に出られない。この子を育てられない。
数年振りに実家の戸を叩く手は、ひどく震えていました。相変わらずの耐え難い腐臭、思い出される父の怒号と母の悲鳴、ダンダンと激しく地鳴る壁や床、血と涙を流し許しを乞う母の顔に、それらをなんら表情を浮かべることなく静観する祖父母の虚ろな目……。
『ハァ……ハァ……ハァ……!』
戸を叩くギリギリのギリギリまで、私は本当に他に手立てがないのか考え続けました。出産を機に奉公を辞した私は、働き先から見つけなければなりません。どれだけ頑張っても数ヶ月の時間はかかる。
なんの打開策が浮かばないまま、それでいて戸を叩くこともできず、私は娘を抱えたまま呆然と立ち尽くしていました。
『姉者……?』
振り向くと、そこには平鍬を担ぎ、継ぎ接ぎだらけのボロ着に身を包んだ青年が、唖然とした顔で立っていました。
『ぎん?』
――弟でした。
『姉者!』
数年振りに会う、弟の姿。すっかり大きくなって、立派に育った彼を見て、思わず目頭が熱くなった。しかし、家族を……自分を捨てるような真似をした姉を、彼はきっと恨めしく思っている。そんな後ろめたさを感じていた私は、手放しで弟との再会を喜べませんでした。
だけど弟は――
『おかえり……! おかえり、姉者……! おかえり!』
迷わず駆け寄って、その大きくなった身体で私と娘を力強く抱きしめながら、何度も何度も「おかえり」と……私の帰りを待ち侘びていたことを、涙を流しながら言葉にして伝えてくれたんです。
ぎんの話によると、ここ数年で実家はかなり変わったと。いや、芥溜であることに変わりはないのですが、父が、行方不明になったそうです。私が出て行ってしばらくして、多額の借金で首が回らなくなった父は、とうとう借金のカタとして連れて行かれてしまった。挙げ句、祖母も持病を患って去年の暮に亡くなり、今は祖父と弟の二人で暮らしていると言います。
『俺はというと、奉公先で旦那と折り合いが悪くなっちまって、半年前にとうとう辞めちまった。今は近所の農作業を手伝って、爺さんの面倒見ながら日銭を稼いでんだ』
私に顔向けできないと思っているのか、弟は肩を落としながら近況を報告してくれました。
ですが、ぎんの話を聞いて、むしろ私は好機だと思ったんです。
あの恐ろしかった父はもういない。祖父と娘の面倒をぎんに任せれば、昼夜構わず働きに行ける。生活は貧しいままだろうけど、やるしかないと思いました。
実家の環境では娘を育てられない。育てたくない。だから私達は、昔から実家の隣にあるボロ屋を借りてそこを三人の生活拠点としました。
私が働いている間はぎんが家のことを、そして、私の仕事が休みの日にはぎんが働きに出て、二人で協力してなんとか生活を成り立たせていました。
そんなある日のことでした――
『あれ? お小夜か?』
仕事からの帰り道、ふと名前を呼ばれ、思わず振り返ってしまったんです。
それは、本当に偶然の再会でした。
『出戻ったと噂を耳にしたが、本当だったのか』
『えぃきち……様』
かつての奉公先だった米屋の跡取り息子と、すれ違ってしまった。その瞬間、ずっと忘れようと奥底に閉じ込めていたあの忌まわしい記憶が、一気に脳裏に雪崩込んだ。あの感触、あの臭い、あの痛み……まるで、その時に引き戻されたかのような感覚になって、私の身体は石化したように固まってしまった。
『あの実家に、子どもを連れて戻ったなら生活は楽じゃないだろう?』
『お、弟もいますので、なんとか……』
「ふーん」と感心するような声を漏らしながら、舐めるような目で永吉は私の顔を覗き込む。私はそれが恐ろしくて、ただでさえ直視できず伏せていた顔をさらに余所へ逸らした。
『またウチで、面倒見てやることもできる』
『け、結構です。今はもう、働きに出られていますので!』
逃げるようにして帰ろうと私は踵を返しました。永吉はその荒い息を含んだ不快な声で私を引き留めましたが、聞こえぬふりしてそのまま立ち去ろうとしました。すると――
『待て』
永吉は、皮膚が硬くなったその大きな手で私の肩を掴んだ。途端、まるで全身にムカデが這い上がってくるようなおぞましい感覚に身震いし、私は咄嗟に彼の手を払った。昔の癖でつい、私は"やってしまった"と永吉の顔色を気遣わしげに伺いました。
しかし、彼は私の無礼を気にする様子などなく、平然とした顔で話を続けたのです。
『お小夜は、以前ウチにいた経験がある。幼馴染の好としても、今のところより給金を出すよう、父上に進言してやろう。だがな、一つ確認しておきたいことがある。――お前が産んだ子どもは、女子か?』
……その後、どうやって帰ったのかはよく覚えていません。
永吉のあまりの気持ち悪さに耐え兼ねた私は、必死に逃げ帰ってきたのでしょう。気付けば、家の玄関前で戸に項垂れるようにして息を切らしながらへたり込んでいましたから。
永吉は、悠を狙っている。
ぎんにさえ手を出そうと考えていた人です。しかし、まだ救いだったのは、彼が家の外の者に対しては手を出したことはこれまで一度もありませんでした。
ぎんには、自衛の為にも私が永吉にされたことは昔からすべて話しており、幼馴染であろうと彼に決して近づかないように言い聞かせていました。
『永吉さんと会った? 姉者、大丈夫だったか?』
その日の出来事も、すべてぎんに話しました。悠が狙われるかもしれないこと、悠に永吉を近づけさせないようにすることを伝え、ぎんもこれまで以上に悠から目を離さないようにしてくれたのです。
『悠のことは俺に任せろ。心配なのは姉者の方だ。自分一人でなんとかしようとせずに、ヤバかったらすぐ近くの家に逃げ込めよ』
『母さま……』
『ああ、悠!』
私の不安を感じ取ったのか、その時、悠も心配そうに私に抱きついてきました。
『ほら、悠も心配してる。ただでさえ働いてばっかで会えないんだ。悠だって心配だよな?』
『母さま、おしごと行っちゃやだ』
『ごめんね、悠』
働き始めてからというもの、正直まともに悠との時間は取れていませんでした。そのせいか、駄々を捏ねることこそありませんでしたが、悠は私が家にいる時はいつもべったりで、口癖のように「仕事に行かないで」「一緒にいて」とさり気なくせがむことが増えていました。
子どもながらに生活の貧しさを分かりつつも、とても淋しい思いをさせていたんだと思います。
『ぎん、本当にいつも、ありがとね』
『あたぼーよ!』
鼻を指でこすりながら、胸を張って調子のいい返事を返してくれるぎん。まるで、私の不安を飛ばそうとしてくれているように見えました。
彼がいてくれるから、私達親子は路頭に迷わず生きて行けている。彼だって、もう子どもじゃない。好きなことをしたい盛りだろうに、文句一つ言うことなく、娘と祖父の面倒を見てくれる。
ぎんには、感謝しかありませんでした。
――それなのに……
『――御用改である! 道を開けろ!』
それは、私が永吉と再会して三ヶ月ほど経った時でした。
永吉が、御用で奉行所に連行されることになったんです。彼に掛かった容疑は――――幼児への強姦殺人でした。




