第三章 第一話
「なあ……最近、あそこの爺さん、めっぽう姿を見せなくなったと思わねぇか?」
とある日の八つ時——
農作業の休憩時間でごった返す、町のしがない食堂で、茶をしばいていた商人が相席している男にそういえばと話を持ち出した。突然のことで、はてと男は首を傾げていると、商人から「ほら、あの網町三丁目の横丁にある」とヒントを与えたところで、男は「ああ」と分かったような声を上げた。
「そういや、しばらく噂は聞かねぇな。年も年だし、あんな場所に住んでちゃあな……」
「全くだ。五日程前だったか。仕事で前を通りかかったが、もう一寸の間を過るだけでも耐え難かった。前よりも臭いがきつくなって、一嗅ぎでもすりゃあ胃の中のもんを全部ひっくり返しちまうような」
「おいおい、食欲失せるだろ」
口に入れようとした食べかけの団子を持つ手を止めて、男は苦笑して牽制する。だが、どれほど酷いものだったのか、商人は鼻を抑えても臭いが入ってくるのだと男の制止を聞かずして身を以て体感したことを力説した。
「『網町の芥溜』……あの家が巷でそう言われ始めて、もう十年以上経つか」
遠い記憶を覗き込むような目で、男は宙に呟いた。
「十年前も大概だったが、やはり堕ちる奈落は底知れず。今思うに、昔の汚さが清潔に見える」
商人の話によれば、その家は玄関戸の前を蝿が飛び回り、地に視線を落とせばゴキブリが何匹も這いずり常駐しているのだと言う。前を通る通行人は、皆こぞってそれらを避けるためにさらに離れて大回りしなければ行けないほどの虫屋敷状態。近隣住民によれば、以前には戸の隙間から謎の液体が漏れ出し、そこに蟻やカナブンなどが群がってその液を吸っていたそうな。
挙句の果てには、生臭いような屎尿臭いような酸っぱいような、そんな単純な言葉では表現しきれない耐え難い腐臭が漂っている。
今は格子窓が黒幕で覆われて中が見られないようにされたため、室内の惨状は検討も付かないが、ただ一度だけ、数年前に興味本位で商人は格子窓越しに中を覗いたことがあった。その時から、芥箱から芥塵が溢れ返って部屋中に散らばっていたし、壁や畳は傷だらけで茶色染みが何箇所もあり、とても人が住める空間ではなかったと言う。物だってあるのは空っぽの酒瓶と、穴だらけで便を拭いた布のような汚い布団がぐしゃぐしゃに敷かれてあるぐらい。
「昔は物見遊山で、冷やかしに来た奴らが持ち寄った芥を擲っていたが、今はそんな気すら皆起きねんだろな。思えば冷やかしでも、興味を持たれてた方が生死がわかる分、まだ安心できたのかもな」
神妙な面持ちで語りながら、商人はぜんざいを啜った。言葉にはしなかったが、そんな胸糞悪い話をしながらよくも啜れるものだと、男は得も言われぬ表情を浮かべた。片や、そんな男が持っていた団子は、完全に器の上に置かれていると言うに。
「というか、勝手に爺さん殺すなって」
笑い混じりに男は言う。
「まだお小夜ちゃんが毎日様子を見に行ってんだろ? そんな心配なら聞いてみたらいいじゃねぇか」
商人が有無を言う前に、男は店の中を動き回る女中に手を振って、親しげに呼び止める。
「お小夜ちゃん、ちょいと」
「はいはーい、今行きます」
忙しく働いている中、名前を呼ばれた若い女中は気前のいい返事をしながら、手早く食事が終わった席の器を厨房に下げると、すぐに男達の元にやってきた。
仕事熱心な小夜は「ご注文ですか?」と、懐から紙と小筆を取り出す。その勤労さに少し申し訳なさそうな表情を浮かべながら、男は「いや、そうじゃないんだけどさ」と話を切り出した。
「最近、おじいちゃんの姿あんまり見かけないけど、元気してんのかい?」
突然のことに、小夜の目が一瞬、キョトンと丸くなる。
「ああ! 元気……ではないですけどね。年ですし、長年あんな不衛生な場所にいると、ね? 最近はもう完全に床に伏せてしまって」
頬をかいて、困ったような笑みを浮かべながら小夜は話す。
「今でも毎日通ってんのかい?」
「と言っても家隣ですし。やってることと言えば、洗濯とご飯持って行くくらいで……。掃除も布団干しも、やろうとしたら奇声上げるし、清拭も気が向いた時に勝手に自分でしてますし、負担という負担はそんなに」
男の心配とは裏腹に、小夜は意外にもあっさりとした反応を寄越した。
「でもあの臭いを毎日耐えるのは大変だべ?」
するとなぜか、男のその言葉に小夜は少し誇らしげな顔でハンと鼻で笑った。
「その先の向こう側へ行けばこっちのもんですよ」
「お小夜ちゃん、渡っちゃいけない川を渡った覚えない?」
「あの臭いを克服すると多少の臭いは屁でもなくなります。馬糞や牛糞なんて花の香りと一緒」
「お小夜ちゃーん、それ克服じゃなくて喪失だから! 正常な嗅覚が確実に損なわれてるから!」
焦る男の反応を楽しむように、小夜は悪戯ぽく笑いながら「早くこちら側にいらっしゃないな。楽になれますよ」などと冗談めいとことを口にする。
「でもな、お小夜」
「ん?」
「お前さん、ちゃんと休めてんのかい? 女手一つだし、その……色々、目まぐるしくあったじゃねぇか」
口籠りながら、小夜と顔を合わせづらそうに商人はチラチラと彼女の顔色を伺い言う。商人の言わんとしていることを汲み取った小夜は、「ああ……」と視線を落とし、刹那表情を強張らせる。
「そりゃ、旦那と死別して出戻ったら、娘も死んで、その後に弟も失踪したってなったら誰でも心配しますよね」
すでに皆知るところである、つらつらと述べられた彼女の過去を、商人は冷や汗を一筋流しながら、気まずそうに黙って聞く。その向かいに座す男も、落ち着かない気分を誤魔化すように、とっくに空になっている湯呑に意味もなく触れた。
「……でもね、もう何年も前の話です。涙を流すのにも、事切れました。全部吹っ切れた、と言えばさすがに嘘になりますが、皆さんのお陰で乗り越えられていることがあるのも事実。その甲斐あって、自分がまた壊れてしまわないよう、今ではある程度は気持ちに折り合いをつけられるようにもなって、存外、気楽に行けてます」
だから思っているよりも心配はいらない。そう向けられた、無邪気とも言える屈託のない笑顔に、商人は心配さを残しつつも、最後にはフッと表情が綻んだ。
「そうかい。それなら、俺も安心だ」
それ以上は何も言うまいと、商人は口を噤んだ。
やがて束の間の休憩時間も終わり、客の殆どが仕事へと戻っていく。気怠げな文句を口にしながらも、その足取りはしゃんとしていた。女中は、遠ざかっていく男たちの背中へ元気な声を投げかけ、見送った。
「……女中さん、ご馳走様でした」
客を見送り、ふぅっと溜息をついたとき、中に残っていた頭巾を被った尼僧に声を掛けられた。
「毎度あり!」
御高祖頭巾を目深に被ったその尼僧が頼んだのは、ほうじ茶と葛餅。食器の中身は空。
むさ苦しい男達に交じって、ぽつんと一人存在を消しながら佇んでいたため、小夜は少し気に掛けていたつもりでいたが、尼僧が頭巾を外したところを上手く想像できない。はていつ食べていたのかしらと小夜が傾げていると、尼僧は代金を置いて席を立ち、錫杖のチリンとした心地の良い音を奏でながら、静々と店を立ち去っていった。




