第二章 第十一話
――おそらくこれは、寺子屋から蓮と別れた後の夜の日だろうか。
空色が夕焼け空から肌寒い夜の色に変わった。
この日もまた、蘭坐は母が帰るまでの時間を、勉強で潰していた。
するとしばらくして、待ち侘びたその声が外から聞こえてきた。
『母様、帰ってきた!』
伏せていた上体を起こし、玄関の方に目をやる。
だが、待てど暮らせど一向に母は家の中に入ってこない。なんなら、声は先程から全然こちらに近づいてこない。よくよく聞けば誰かと話している……いや、所々母の金切り声が聞こえてくる辺り、喧嘩でもしているのか。
心配になり、蘭坐は玄関に向かってそーっと戸を開け、外を覗いた。
『なんでダメなのよ!』
『だからまだいくらなんでも』
真夜中だと言うのに、大きな声で母と誰かが激しく言い争っている。相手は暗くて誰かは分からないが、大柄な影が縋る母を引き離そうとしているみたいだった。
『結婚しようって言ったのは勝ちゃんの方じゃない! 結局私は遊びなの!?』
『もういいって!』
『ちょっと捨てないでよ! 行かないでってばあ!! ねぇ!!』
乱れた着物を雑に整えながら、道の真ん中で手を伸ばす母の方を何度も振り返って、男は逃げるように暗闇の中へと消えて行った。
置いてけぼりを食らった母は、男が消えた方に向かって何度も何度も汚い罵声を吐きながら、やがてそのまま地面に伏して、わんわんと子どものように泣き喚いてしまった。
『母様……』
母の元へ駆け寄り、不安げな声色で蘭坐は母を呼ぶ。だが、母を思う子の声はすべて母の泣き声に掻き消され聞こえていない。
落ち着くまで傍にいようと、蘭坐がそっと母の頭を撫でると、その優しい感触に気付いた母が顔を上げた。
『蘭坐……』
『はい、母様』
母を呼び、変わらず微笑みかける彼に安心したのか、落ち着きを取り戻したように彼女はギュッと彼を抱きしめた。
『蘭坐ぁ……明日、寺子屋サボって、母様とお家で遊ぼっか』
『え!? いいんですか?』
『いいよ……一日、ずーっと母様と一緒にいよ?』
泣き腫らした顔を息子の肩に埋めさせながら誘いかける母を、幸せそうな顔を浮かべて蘭坐も母の着物を強く握り返した。
夕方の蓮と伽耶との光景が、さぞ羨ましかったのだろう。楽しみと言わんばかりに、明日は何をして遊ぼうかと蘭坐は母に話し続けた。
それに対して、母が何か言葉を返すことはなかったが……。
――母様! 今日は一緒にいられるのですよね?
寝坊した母の布団の上に乗って、期待に満ち溢れた声で母を揺さぶり起こす。母を気遣っていた蘭坐にしては、珍しく子どもらしい無邪気な一面だった。それだけ、一秒でも長く母と共に過ごす時間が惜しかったのだろう。
うーん、と煩わしそうに寝起きの声で唸りながら、母は蘭坐に手を引かれ布団から起き上がった。まだ半分寝ぼけているようで、泣いて浮腫んだ己の顔が映る鏡台を見つめ、しばらく母は呆然としていた。
『朝餉は何にしますか! 言ってくれれば準備しておくので先に顔でも洗ってて』
すると、身支度を急かす蘭坐の手を母は取った。突然強く握られた手に少し戸惑いつつも、蘭坐は母の手の上にもう一方の手を重ねた。
『母様?』
『蘭坐……遊ぼっか』
虚ろな瞳を、蘭坐に向ける。
『はい! 今日はたくさん遊びましょう!』
だが蘭坐は、母の瞳に己が映るだけで簡単に表情が綻ぶ。
『ぶらんこしよ。母様の箪笥から、好きな帯締2本取っておいで』
言われるがまま、蘭坐は母の箪笥を開けた。適当に詰め込まれた服の山から絡んだ紐を探して、母の好きな黒と自分の好きな杏の帯締を引っ張り出した。
『ありがとね』
紐を渡すと、生気を失っていた母はいつもの表情を少し取り戻したかのように、優しく微笑んだ。
受け取った紐を台の上に乗って母がしっかりと鴨居に括り、『お手製ぶらんこ』などと茶目っ気ある言い方で輪っかを作った。同じように蘭坐の分も鴨居に結びつけ隣同士同じように輪っかを作ってあげた。
そして、蘭坐の両脇を持ち上げて輪っかのところまで身体を持ち上げて、両手で紐を握らせた。
『すぐに母様も乗るからね』
『はい!』
――――せーの!
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瞬きの刹那、場面が変わった――苦しそうに嗚咽を吐き涙を零す蘭坐と、杏の解けた帯締が床に転がっていた。
『母、様?』
ぶら下がった母の姿は、もはや生きていた頃の面影すらなかった。
身体を揺さぶっても、手に触れてみても、母が動くことはなく、柱の軋音が虚しく響くのみ。下から覗き見た瞳は、これまで見たどの母の目にも当てはまらない、何も映し出していないような虚空。
『母様!』
そこから記憶が途絶えたように、九羅の視界がまた暗くなった。
「ん?」
光が差さない闇の中に再び戻り、もう一度辺りを見回す。すると今度は、どこからともなく幾人もの囁き声が聞こえてきた。
――男に捨てられたくらいで子どもと心中だなんて愚かな……。
――結局、自分のことしか考えられないなんてバカな娘だ。
――子どもはどうする?
――ほとんど放置だったそうじゃないか。たまたま聡い子が生まれたから親が助けられていたようなもの。
――ちゃんと愛せないのなら、どうして腹痛めて産んだのか。
「これは、蘭坐殿が聞いた声、なのか……?」
空間中のそこ彼処から聞こえ来る声を、九羅は見上げた。すると突然、視界が開けてまた辺りが明るくなった。
「ここは……」
見渡すと、今度はどこかの森に立っていた。ひぐらしの鳴き声が響く森の中、二人の少年が大木の根元で身を屈めながらコソコソと何かをしていた。
『蓮、何をやってるの?』
『合わせ鏡の呼寄』
『またそんな奇妙なことを』
蓮の言うことに、蘭坐は呆れたように返した。
『蘭坐、もう大丈夫なの?』
『なにが』
『お母さんのこと。首吊って死んだんでしょ?』
蓮に聞かれ、蘭坐は一瞬身を強張らせた。
――可哀想な、蘭坐君。
蘭坐の記憶の中で、誰かが言っていた哀れみの言葉が反芻する。その記憶にギリリと下唇を噛み締める蘭坐だが、すぐに平静を装って作った笑顔を向ける。
『一緒にぶらんこ遊びして、間違えちゃっただけ。母様は死にたくて死んだわけじゃない』
『そうなんだ』
『蓮に心配されるようなことは、なにもないよ』
『そっか。それなら良かった』
蘭坐が取り繕っていることは明らかだったが、言葉を字義どおりに捉えた蓮は、彼の言葉を鵜呑みにして「良かった」とほっとした笑顔を返した。その笑みに、蘭坐の眉が下がって複雑そうな表情を密かに浮かべていたが、それに気付かずに、蓮は自身の手元に集中し始める。
本を読み込みながら、鏡と香を準備する蓮をしばらく見ていた蘭坐が何気なく聞いた。
『そのよびよせ?って、成功したらどうなるの』
『死んだ人の魂が生き返る』
『まさか』
蘭坐は冗談かと一度は鼻で笑った。だが、真剣な面持ちで、ただじっとこちらを見つめてくる蓮の顔からは、冗談の色が微塵も感じられず、思わず息を呑んだ。
『……本当に、できるの?』
『できるけど、できない』
『どういう意味?』
『合わせ鏡の呼寄には、人を一人殺さなきゃいけないんだ。でも人は殺しちゃダメだからさ』
ふと蓮の手元に視線を落とすと、二枚の鏡を合わせ、その前には虫の死体が何匹か並べられていた。おそらく人の死体の代用で、それで呼寄ができるのか彼は実験しているのだろう。
バカバカしい……だけど同時に、バカな期待を抱いている自分もいた。
言うか言うまいか、開けようとした口を堅く閉じて言葉を呑みながら、蘭坐は呟くようにして俯き加減に蓮に聞く。
『もし……できるってなったら、それでまた母様に会えるかな?』
蘭坐からの問い掛けに、蓮は作業の手を止めることなく、無邪気に答えた。
――――『会えるよ』
あっさりと、当たり前のように答えた蓮の隣で、蘭坐は静かに覚悟を決めたような面持ちを浮かべた。




