第二章 第十話
「ん…」
次に目を開けた時、眼前に広がっていたのは、夕暮れ時に風鈴の音が穏やかに鳴り響く、静かな長屋。その一角のとある家の玄関に、九羅は立っていた。
「ここは……?」
見覚えのない場所……部屋の中は散らかっているとまでは行かずとも、箪笥の中からは着物がはみ出し、整頓はされていない印象。箪笥のすぐ近くには化粧道具が放置されている鏡台があり、そしてその隣には小さな文机があって、机に向かう小さな背中が……。
「これは——鏡人の、記憶の欠片か?」
するとそこへ、ぶっきらぼうな声と共に、玄関戸がガラリと開く音が背後から聞こえてきた。
『ただいま』
入ってきたのは、20過ぎくらいの若めの女性。今にも溢れ落ちそうなほどの涙を目に溜めながら、仏頂面を吊り下げて帰ってきた女とは裏腹に、文机に向かっていた子どもは弾けんばかりの笑顔で、勢いよく振り向いた。
「——蘭坐、殿?」
元気な足音をパタパタと立てて、蘭坐はすぐそこの上がり框まで女を出迎えた。
『母様、お帰りなさい!』
しかし、蘭坐に目をくれることなく、女は上がり框に腰掛けて乱雑に草履を脱ぎ始めた。その間、蘭坐は今日の出来事を口早ながら、母親に話し始めた。
鉢の朝顔が今日芽吹いたこと、寺子屋の試験で満点を取ったこと、近所のおじさんから大根と芋を分けてもらったこと……だが、いずれの話にも母親は食いつかず、表情も晴れることはない。端から見ていれば、蘭坐の話など全く耳に入っていないように見受けられるが、それでも母親からの反応など最初から求めていないかのように、蘭坐は一方的に話し続けた。
「それでね、母様」
蘭坐が次の話題を振ろうとした時、母親はなんの前触れもなく、突然部屋に向かって持っていた巾着袋を力いっぱいに投げつけた。何かが壊れる音と共に、床に叩きつけられた中身は飛び散り、手鏡や折れた櫛などが巾着から顔を覗かせていた。
『母様……?』
当然ながら、母親の豹変ぶりに蘭坐の笑顔が引き攣る。身を固め、母の顔から目を逸らさず、呼吸音にさえ気を使いながら、蘭坐はじっと母の出方を待った。
『蘭坐ぁ……』
すると母親は蘭坐の顔を見るなり、溜めていた涙を流し、彼をギュッと抱き寄せて泣き崩れた。
『どうしたのですか、母様』
『ヤナちゃんがね、別れるって……! 子ども産まれるからってぇえぇえ』
母の嘆きを聞くと、少しホッとしたかのように蘭坐の角張っていた肩が緩んだ。
『結局みんな、好きだなんだとか言いながら、私よりも他の物選ぶんじゃん! 奥さんと別れるって言ったくせに、結局いつも私を捨ててんじゃん!』
『ひどいね……』
子どものように泣き喚く母親の頭を、蘭坐は「よしよし」と宥めながら撫でる。
母親はその縋りついた小さな肩を掴み、崩れた顔でここで初めて我が子と目を合わせた。
『蘭坐は、母様のこと捨てないよね? 絶対に、なにがあっても母様の側にいてくれるよね?』
鬼気迫るその言い草は、まるで呪いのようだと九羅は思った。男に捨てられた傷心を、我が子に縋ることで埋めようとする女の姿に、思わず眉間に皺が寄る。
だが、そんな母親の心理をまだ理解できない蘭坐は、母が子を大切に想う無条件の愛情だと勘違いして、照れくさそうに笑った。
瞬いた刹那——視界が変わり、次は夜の長屋の景色。
日は別か、先ほど蘭坐が身に纏っていた着物とは異なって袷を着ており、恐らく秋口くらいまで時間が飛んでいる。
心許ない蝋燭の灯りを頼りに、蘭坐はまた文机に向かっていた。もう夜もだいぶ更けているというのに、部屋には一人。何度も何度も格子窓の外を見る姿から、恐らく母親の帰りをずっと待っているのだろう。
『ただいま〜』
すると今度は、上機嫌な明るい声色で玄関戸を開ける音が。
『母様、お帰りなさい!』
またすぐに、蘭坐は母親の元へ走り出迎えた。
相当酔っているようで、終始鼻歌を歌い、彼を見るや否や『なんだ、まだ起きてたの?』とにへらと笑いながら、先ほどと同様に上がり框に腰掛ける。
『母様、聞いてください。あのね』
『それより蘭坐、聞いて! 勝ちゃんが、夫婦になろうだって!』
持っていた巾着から、男からもらったであろう撫子の簪を自慢気に見せつけながら、母はそれはそれは嬉しそうに蘭坐に報告した。
『母様、幸せになります!』
無邪気に母が喜び言ったことは、蘭坐から一瞬で笑顔を奪った。しかし、最も近くにいる母親は、彼のその異変に全く気付かず、うっとりともらった簪を眺めている。
『か……勝ちゃんとは、祭世話の勝之進さんのことですよね?』
『そうよ。蘭坐も前お祭りで会ったことあるでしょ? 奥さん早くに死んで、子どもも母様と同い年くらいで自立している。年上でしっかりしてるし、母様と蘭坐のこと、ちゃんと幸せにしてくれるよ!』
『しかし母様……勝之進さんとお付き合いを始めてまだ一月ほどしか』
『大人はね、大事なのは時間よりも愛よ、愛! 自分にとって居心地いい愛情をくれる人かどうかが大事なの』
聡い蘭坐は、幼くしてすでに母親以上に母親のことを分かっていた。……むしろ、母親の方が幼すぎたのかも知れない。
だが、世間をまだ知らぬ子ども故か、はたまた母親から嫌われたくない気持ちからなのかは分からない。不安を拭いきれていないというのに、目いっぱいに完璧な作り笑いを浮かべ、蘭坐は母親の欲しい言葉を掛けた。
――『おめでとうございます、母様』
・
・
・
――今度は、どこかの広い屋敷の前の通りを、風呂敷包みを抱え歩く蘭坐の後ろ姿から始まった。
『ちょっと蓮! そっちの道じゃなくて帰り道はこっち』
同じ寺子屋の帰りか、蓮と共に帰路についているようだった。しかし、自由奔放に蝶を追いかけたり、興味のある家に忍び込もうとする蓮を制止するなど、彼の子守で目を離せない蘭坐は困ったように後を追い掛けていた。
『あら、蘭ちゃん! こんにちは』
『あ、団子屋の……こんにちは!』
『ちゃんと挨拶できて、蘭ちゃんは偉いわねぇ。それに比べて……』
何、とは最後まで言わなかったが、代わりに団子屋の婦人は蝶を凝視する童に静かに視線をやった。溜息を漏らしながら向けるその眼差しは、明らかに自分に向けた柔らかなものとは違う。
だが、その意図的な差別化を蘭坐は内心で満足げに目を細めながら、わざとらしく「僕だってまだまだです」と謙遜の言葉でさらに自分を飾った。
『蓮はもうちょっと"よわたり"の仕方を覚えた方が良い』
団子屋の婦人と別れ、再び帰路に戻った時、蘭坐は悦に入ったように蓮に教えてやった。だが、肝心の蓮は目を丸くして首を傾げるのみ。
『よわたりって何? 渡り鳥みたいな?』
『違う。人との上手な付き合い方というか……多少なりとも自分を我慢してれば我慢した分だけ良いことが返ってくるよ、って話。ちゃんと聞いてる?』
『あ! かーちゃ!』
蓮の気はすでにそぞろに、蘭坐の話よりも遠くから彼らに手を振る、籠を背負った一人の女性がいた。
『かーちゃ』
蓮の言葉どおり、あれは蓮の母親なのだろう。名前は確か……儀助が伽耶と言っていたな。
手を振る母を見つけるなり、蓮は一目散に走り出して遠い母の元へ駆け付け、腰元に抱きついた。そんな彼を伽耶は優しげな笑みを浮かべながら、しがみついている彼の頭をそっと撫でてやる。
『蘭坐ー! また明日!』
『また、明日……』
嬉しそうに蘭坐に手を振る蓮と、隣で静かに蘭坐に向かって会釈をする伽耶に、蘭坐は手を振り返す。繋いだ手を楽しげに揺らし夕焼け空に消え行く二人の背を、彼は一人見送る。姿が見えなくなっても未だ呆然と二人が消えた先を見つめ続ける蘭坐の背中からは先程の嫌味な態度は完全に消え失せており、九羅にはとても寂しそうに見えた――。




