第二章 第五話
何かが視界の端を掠め、不可解に思った蜂屋は、もう一度ようく追幕を照らした。
だが、特にこれと言った異変はない。気のせいか、そう思ったとき。
——ギィ……ギギィ……
またあの音だ。それも段々音が大きくなっている。
もしかして、囃子台の中か。ふと蜂屋が追幕の上にある囃子台を照らそうと提灯を高く掲げたその瞬間、金色の八咫烏の頭の上を掠めるように、ゆらりと黒い影が横切った。
「ヒッ」
「ん? どうした、はっちゃん」
蜂屋が上げた小さな悲鳴に気づいた茂三が何事かと問いかける。
どうしたと聞かれても、まだ蜂屋にも分からない。だが、彼は確かに見た……追幕の上部を揺蕩う影を。——そして、その動きに合わせて、あの音が鳴ったことも。
息を呑み、鉢屋は震える手でもう一度、すっこめた提灯を上へと掲げた。八咫烏の頭部のさらに上、追幕の幕頭を照らす——
「こ、れ……」
現れたのは、微かに横に揺れる人の足……すでに宙に浮いて脱力したその足の持ち主がどういう状態になっているかは、容易に想像ができた。
その先を、蜂屋は見ることができず手が止まった。しかし、まだ辛うじて冷静を保てていた茂三が、代わりにその先を照らす。
軋音を立てながら僅かに横揺れする筋肉質な体、だらりとぶら下がる両手、見覚えある赤い法被、垂れ下がる長い舌、そして……いくつもの注連縄に雁字搦めに絞められた、首。
「か、勝さ……」
変わり果てた勝之進の姿に、頭が追いつかない茂三は目の前の光景を凝視し、立ち尽くすしかなかった。隣では一緒に見た蜂屋が声を失い、腰を抜かしている。
「なんで、今……」
信じられぬと目を見開き、瞬いたその時――――茂三は勝之進と目が合った。
「え」
状況を理解するよりも、何が異常かを認知するよりも先に、身体が本能的に反応して一気に下半身の力が抜け、気付けばその場にへたって視線が床に落ちた。
茂三には、死んでいるはずの勝之進が動いたように見えた。そんなはずはない。そう思いたくて、呼吸を荒く乱し震えながら、怯えた目でもう一度見上げた。
「「ぎゃあああぁああぁああぁ!!!!」」
こちらを見下ろす勝之進の顔は、まるで、肌や目鼻の代わりに一枚の鏡を嵌め込まれているみたいだった。
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「はて。あの二人は裏で何やってんだか」
「勝之進さんも、まだみてぇだな」
茂三の声掛けを合図に、先に集まった世話役達は、中に入って会合準備のために人数分の椅子などを設置していた。
「「ぎゃあああぁああぁああぁ!!!!」」
するとその時、突然上がる男達の尋常ならぬ叫び声に、世話役達は思わず身を強張らせ、持っていた椅子がガシャン!と音を立てて地に落ちた。
「なんだなんだ?」
ただならぬ悲鳴に、世話役達は何事かと顔を見合わす。
「蜂屋さん、茂三さん! どうしました!?」
そんな中、二人の元へいの一番に信輔が駆け付けようとした。ところが、一歩足を踏み出した瞬間、グン!となにかに襟を引っ張られた感覚がしたかと思うと、そのまま勢いよく後ろに引きずられた。あまりの力の強さで、態勢を崩してひっくり返り、気づけば天を仰いでいた。
「大丈夫!? おじさん!」
回る視界に慌てた様子ですぐに飛び込んできたのは実の息子……ではなく蘭坐。実の息子は悲しきかな、転んだ父に背を向けて、一人蔵内に入り込んだ蟻の列をぼうっと眺めている。
いやそんなことより一体なにがどうなっていると、すぐに山車の方に視線をやった。すると視線を向けたその先を見て、信輔はあ、と声を漏らした。
「あなたは……」
そこに佇んでいたのは、見覚えのあるおかめ面を被った、一本編みの男。
「動くな」
「え……あ、ちょ!」
いつの間に、それよりもなぜ足止めを……そんなことを信輔の喉元から出る前に、九羅は脇目も振らず叫び声の元へと走り向かって行った。
未だ燭台に火が灯っていない裏方の視界は暗い。だが、床に転がっている二つの提灯の心許ない灯りだけで、九羅が状況を把握するには十分だった。
囃子台には、注連縄で吊り下げられた鏡面の男、床には放心状態となっている世話役の二人が、目の色を変えてその面を凝視し、すでに傀儡に取り憑かれようとしていた。
「おいお前! なにをしている!」
「来るな!」
凄んだ声で裏方に集まってくる世話役達を制しつつ、九羅は傀儡に向けて即座に釘を投げ打ち鏡面を割る。刺さった瞬間、常人であれば咄嗟に耳を塞ぎたくなるほどの悲痛な雄叫びを上げながら、傀儡は痛みに悶えるように顔を掻き、体を捩らせ、宙で暴れ回った。
「うるさい」
その声に、音に、煩わしそうに呟きながらトドメにもう一度傀儡に投げ打つ。バリン!と音が響いたと同時に、九羅は床に転がっている二人の男の襟元をしっかり掴み、引きずって傀儡から離れさせる。
——「蜂屋さん! 茂三さん!」
九羅に抱えられ、担がれて、意識を失った状態で戻ってきた二人の元に、心配そうに仲間達が駆け寄る。
「なにが起きた!」
二人の身柄を預かりながら、世話役の一人が九羅に説明を求めた。だが、その声がまるで聞こえていないかのように、九羅は蔵の中を視線を巡らせるばかりで、口を開くことはない。
「おい、聞いているのか! まずはそのふざけた面を外せ!」
痺れを切らした男が九羅の肩を掴み振り向かせ、気性荒く怒鳴った。男はここまでして、ようやく九羅と通じ合った気がしたが、それも束の間——九羅はすぐに男から扉に視線を移した。
「……来る」
「は?」
途端、蔵の扉が突然、バタン!と大きな音を立てひとりでに閉じた。その拍子に生じた風が、燭台の火を揺るがせる。
「な、なんだ!?」
男達が慌てて扉を開こうとするが、男二人で開けられていたはずの扉がなぜか六人がかりでも外から鍵を掛けられているのか微動だにしない。
「おい! 誰かいるか? 開けてくれ!」
「無駄、ですよ」
外に助けを求める者達に九羅は教えてやる。
だが、九羅の忠告に耳を貸す者などおらず、男達はこぞって助けを呼び続ける。
「クソ! 一体何がどうなってやがる!」
摩訶不思議な状況に苛立ちが抑えられない男は、拳を扉に叩きつけた。――刹那、扉に黒い穴が出現。
「え」
そこから黒く長い髪が伸び、一瞬で男の首に絡みつく。喉仏を潰さんとするその締め上げの強さに、男はすぐに呼吸ができなくなって、ハクハクと口を動かし泡吹く。そして髪束は男の身柄を闇の中へと引きずり込み、あっという間に呑み込んだ。
「大和!!」
呑み込まれた男を救い出そうと、陰の中に手を伸ばす男達。だが、生き物のように素早く動き回る陰を誰も掴むことはできず、その手は空を掠めた。
陰はすいすいと扉の上まで登りつめると、まるで舌を出して人間達を弄んでいるかのように、髪で首を吊し上げた男の死体をボロリと吐き出し、扉に飾った。
その有様はまさに、山車に吊るされた勝之進と同じ――てるてる坊主。
晒された男の変わり果てた姿に、つんざく悲鳴が轟くと陰は次なる獲物を求めて再び扉を這いずり回る。
迫り来る恐怖に誰もが奥へ逃げようとしたその時、腰を抜かした誰かが足を引っ掛け転けでもしたのか、それに巻き込まれた人達が次々と倒れ、雪崩が起きた。
「ひっ!」
一番扉側にいた男に、魔の手が忍び寄ろうとしたその直前――数本の釘が、陰の動きを捕らえた。
「へ……?」
そして向けた人差し指を下ろし、結界を展開。
「――戒」
九羅が真言を唱えた瞬間、ビリッ――と一瞬、電流が走るような音が立った。途端に中から悶えるような激しい金切り声が響き渡ると、陰は恐れをなしたように一目散にその場から逃げ出して行った。




