第8章 関与
桐島玲子(42)/主任弁護人
2039年7月某日深夜 桐島法律事務所
電話を切った後、玲子はしばらく受話器を持ったまま動かなかった。
窓の外は雨だった。七月の夜の雨で、しとしとと降り続けている。事務所のビルの向かいに、コンビニエンスストアの看板が光っていた。赤と青の光が、濡れた窓ガラスに滲んでいる。
この部屋で何百時間過ごしたか、もう数えていない。
弁護士事務所を開いてから十四年。秋山慎吾の事件を引き受けてから一年以上。この部屋で何を考え、何を書き、何を諦めてきたか。全部ここに積み重なっている気がした。
違憲では勝てない。奥田はそう言った。
玲子には反論できなかった。最高裁の判例傾向は知っている。安全保障への立法裁量が広く認められている現状も知っている。違憲主張で挑めば、合憲判例を確定させるリスクがある。奥田の分析は正確だ。
玲子自身、薄々分かっていた。奥田に電話したのは、最後の望みを繋ぎたかっただけだ。専門家が「いける」と言えば、それを足がかりにできる。しかし奥田は「いけない」と言った。
その望みが、今夜切れた。
玲子はデスクから立ち上がった。
事務所の中を歩いた。デスク。応接セット。書棚。書棚には条文集、判例集、法律雑誌のバックナンバーが並んでいる。この一年、この棚を何度引っ張り出したか分からない。
ホワイトボードの前に立った。
数日前から書いたままの第四十七条の条文が残っていた。
「特定危険指定を受けた者が、指定後に国家重大犯罪に関与した場合、裁判所はその認定を前提として審理を行う」
玲子はこの条文を何百回読んだか分からない。最初に秋山の接見をした日から、ずっとここに書いてある。
この条文のどこかに、隙間があるはずだと思ってきた。そして一年以上、外側を叩き続けてきた。
新証拠。証言。DNA。
全部、この条文の外側からの攻撃だった。
条文が盾になって、全てを跳ね返した。
違憲主張も同じだ。条文の外側から「この法律はおかしい」と言う。しかし最高裁はその主張を認めない可能性が高い。
外側からの攻撃は、もう尽きた。
玲子の視線が条文の上をゆっくりと動いた。
一語一語を見ていった。
特定危険指定を受けた者が——。
そこは争えない。秋山が指定を受けたことは、第五十三条によって刑事裁判では覆せない。これは鉄壁だ。
指定後に——。
時系列の問題だ。指定は二〇三七年八月、事件は二〇三八年四月。時系列は一致している。ここも争いようがない。
国家重大犯罪に——。
国会議事堂爆破事件が別表第一に定める重大犯罪に当たることは誰も否定しない。
関与した場合——。
玲子の目が止まった。
関与。
この一年間、「関与」という言葉を何百回読んできた。しかし常に、その言葉を所与のものとして扱ってきた。「関与した」という記録がある、だから第四十七条が発動する、という前提で考えてきた。
しかし今、玲子は別の問いを立てた。
「関与した場合」の「関与」とは、何を意味するのか。
この問いを、誰も立てていなかった。
法廷で誰も争わなかった。検察官は「関与履歴がある」と言い、弁護人は「しかし無実だ」と言い、裁判官は「関与履歴がある以上、第四十七条が適用される」と言った。
全員が、「関与」という文言の意味を疑わなかった。
しかし法律の言葉は、書かれた文字だけで動くわけではない。
立法者が何を意図してその言葉を選んだか。国会でどう議論されたか。草案の段階でどう書かれていたか。それが解釈の根拠になる。これは法学の基本だ。
「関与した場合」の「関与」を、立法者はどういう意味で使ったのか。
車を無断使用されたという事実を「関与」と呼ぶことを、この法律を作った人間は想定していたのか。
玲子にはまだ分からなかった。証拠もない。確信もない。ただの直感だ。
しかし。
初めて、進むべき場所が見えた気がした。
外側に道はない。ならば条文の内側に入る。「関与」という言葉の中に入って、その意味を問い直す。
玲子はマーカーを取り、「関与」の二文字をゆっくりと丸で囲んだ。
それからコートを掴んで事務所を出た。
エレベーターを待ちながら、玲子は頭の中でリストを作った。
立法当時の国会議事録。法制局の草案記録。委員会の審議資料。当時の新聞記事。法案作成に関わった人間——元議員、元官僚、元法制局職員。
全部、これから読む。
全部、これから会いに行く。
国会図書館は翌朝九時に開く。
エレベーターが来た。
乗り込みながら、玲子は窓の外を見た。
雨はまだ降っていた。




