第9章 誰も読まなかった過去
上條正幸(74)/元法制局職員
2039年8月某日午後 上條邸 縁側
よく晴れた午後だった。
上條正幸は縁側で茶を飲んでいた。湯呑みは少し欠けているが、長年使い慣れたものだ。庭の梅の木が今年もよく育っている。退官してから七年、こういう午後が増えた。
インターホンが鳴ったのは、二時を過ぎたころだった。
「桐島と申します。桐島法律事務所の桐島玲子です。お電話でお伝えした通り、第四十七条についてお聞きしたいことがあって参りました」
上條は立ち上がり、玄関に向かった。
若い女性だった。黒いスーツ。背筋が真っ直ぐで、目が鋭い。名刺を差し出した。桐島玲子、弁護士。
「どうぞ」
縁側に案内した。お茶を出した。玲子は一口飲んで、「ありがとうございます」と言い、すぐに本題に入った。
「上條さんは、国家安全保障特別法の立法作業に関わっていらっしゃいましたね」
「はい。法制局の主任担当者として、草案を作りました」
「第四十七条の草案を、最初はどう書かれましたか」
上條は少し間を置いた。記憶を辿った。あれは二〇三六年の秋だった。
連続テロ事件が続いていた。テロの度に死者が出た。世論は激しく怒った。政府は「再発防止のための抜本的対策」を求められていた。NSAの設立とAI認定制度は、その文脈で生まれた。予測型安全保障制度——テロを事前に防ぐという発想は、当時の世論に広く受け入れられた。
上條のチームは法案作成を担当した。スピードを求められた。三ヶ月で仕上げた。
「最初は『実行した場合』と書きました」
玲子が一枚の紙を取り出した。
「これですか」
上條は老眼鏡をかけて読んだ。コピーされた草案の一部だった。確かに自分が書いた文字だった。
「認定後に本人が重大犯罪を実行した場合」
「はい、最初はそう書きました」
「なぜ『関与した場合』に変わったんですか」
上條は茶を一口飲んだ。記憶を整理した。
「上から広くしろと言われました。当時、懸念されていたのは、テロリストが自分は直接手を下さず、実行部分だけを他人に任せて逃げるというケースでした。主犯が自分では何もしないまま、指示だけしている場合をどう扱うか、という問題です。それに対応するため、『実行した』から『関与した』に広げた」
「つまり、想定していたのはテロリスト本人が計画・指示する場合だけですか」
「そうです」
上條は玲子の顔を見た。弁護士は真剣な目をしていた。何かを確認しようとしている目だった。
「車を無断使用されたというだけで関与と認定され、死刑判決を受けたケースがあります」
上條はその言葉を聞いて、少し止まった。
「秋山慎吾という人物です。新聞でご覧になりましたか」
「……見ました」
上條は茶碗を置いた。
そんなことは、考えていなかった。
立法作業の場で、そういう話は一度も出なかった。テロリストが自分で実行する場合。テロリストが指示して他人に実行させる場合。その二つのケースしか、誰も頭になかった。
第三者による無断利用。誤認定。関係ない人間が巻き込まれるケース。
想定していなかった。
想定する理由がなかった、というべきか。制度が始まったばかりで、実際にどういう形で運用されるか、誰も経験していなかった。法律を作るとき、全ての可能性を想定することはできない。それは分かっている。しかし——。
「想定していませんでした」
上條は静かに言った。
庭の梅の木を見た。よく晴れた午後だった。梅の葉が風に揺れていた。
善意で作った法律だった。テロを防ぐために、人々の命を守るために作った。誰かを理不尽に死刑にするために作ったわけではない。
しかし今、その法律が一人の人間を死刑にしようとしている。
七十四年生きてきて、上條は自分の仕事がこういう形で終わるとは思っていなかった。
「当時の国会議事録はご覧になりましたか」
「いいえ」
「全て読んでいただけますか。立法者がどういう意図で『関与』という言葉を使ったか、それを示す証拠が必要なんです」
上條は玲子を見た。
この弁護士は、何かを見つけようとしている。
上條には分からなかった。それが何で、それが有効かどうか。しかし一つだけ分かることがあった。
自分が作った法律が今どういう形で使われているか。それと向き合う義務が、自分にはある。
「議事録は全部お見せします。当時の関係資料も、手元にあるものは全て」
上條は立ち上がった。書斎に向かった。
七年前に退官したとき、担当した主な法案の資料を持ち帰っていた。処分しきれなかったからだ。まさかこういう形で役に立つとは思わなかったが。
書斎の棚の前で、上條は少し迷った。どの箱に入っているか。
見つけた。段ボール箱に「NSA関連法案」と書いてあった。
持ち上げようとして、思ったより重かった。
足元が、少し重かった。




